同年六月からは、小平市の福祉会館(七二年四月開館)に設けられた老人向けの作業場でステレオ部品のはんだ付け、幼児本の付録の袋詰めをわずかな賃金でおこなっている。この作業場設置は、福祉会館建設にあたって明寿会が要望したものであり、第六章第四節3で述べた、七〇年の高齢者就労にかんする学習や行政との対話の成果であった(なお、七一年には明寿会内部に就労を支援する「もみじ会」が設置されたが、奉仕部との関係性など不明な点が多いことから、略記するにとどめる)。この後、明寿会奉仕部は、会員宛てのはがき書き、中央公民館、図書館付近の除草作業、特別養護老人ホームの多摩済生園のオムツたたみ作業などをボランティアでおこなうようになった。多摩済生園のオムツたたみは市内のボランティア団体との持ち回りでおこなわれ、当初明寿会は月一回、約二〇名の有志でおこなったが、八〇年四月からは明寿会内部のクラブ単位(八〇年四月、二八クラブ)に月別で有志を募りおこなった。八三年一月時点で、奉仕部は、このオムツたたみ一本に活動を絞っていた。七六年には、小平市が東京都による高齢者事業団(参加高齢者の自主運営による事業団を設置。事業団が仕事を請け負い、会員が希望に沿って仕事に従事する)の実施地域に指定されたのにともない、市の行政担当者を招いての学習会を開催し、要望を述べるなどしている。
以上のように、老人福祉を実践する団体として活動した明寿会であったが、その内部では組織の統一的運営にかんする問題が生じていた。第一に、構成クラブの「私塾化」の問題である。一九八〇(昭和五〇)年五月の時点で、明寿会のクラブであった「野草の会」は、クラブ運営が明寿会々員ではない若い人本位になり高齢者向けでなくなったこと、明寿会々費の不納者が多く明寿会の方針に沿わなくなったことから分離された。民謡・民踊クラブは、「明寿会クラブの精神を逸脱、私塾化の傾向が見られた」ため講師が変更された(以上『明寿』第四九号/第六一号)。第二に、月一回の全体学習会への出席者が減少した。当初は少なくても数十人の出席はあったが、八四年の頃には一〇人余りのときもあったという。これは、クラブ数が増えたため、全体学習の日にぶつかることが多くなったためなどとされている。
一九七〇~八〇年代の明寿会は、六〇年代の時期と同様、高齢者学級、シルバー大学の受講者を受け入れるとともに、これらを受講していない者の入会も認めていた。一九八四年の時点では、次第に明寿会のクラブに直接入会する者が増加してきことから、高齢者向け学級の同窓会としての段階は過ぎたのではないか、という意見が会員より出されている。表6-17(第六章第四節3参照)にあるように、明寿会の会員数のピークが一九七〇年代半ばから八〇年代半ばであることの背景には、高齢者向け学級を受講せずに、直接明寿会のクラブに入会する者が増加する事態があった。そして、このような会員の増加は、先に述べた構成クラブの「私塾化」や全体会への出席がわずかであるという事態をもたらし、会の性格は変わっていった。
図7-43 小平市中央公民館『明るい老後を』第2号 1977年