小平の医療と福祉は四つの画期に整理できる。第一の時期が戦前であり、昭和病院や精神医療を取り扱う傷痍軍人武蔵療養所、多摩済生病院が設置されたことであり、第二の時期は戦後の一九四八(昭和二三)年から一九五一年であり、第五章第五節4で述べたように、小川の一角に、東京身体障害者公共職業補導所と東京都多摩公共職業補導所、東京都共同作業所、緑成会の病院と整育園、多摩保育園、それに東京都立光明小中学校多摩分校がそろったことである。
第三は市制施行以降の一九六〇年代であり、市制施行により、小平市福祉事務所と小平保健所が設置され、福祉のケースワーカーや保健婦が小平市内に常駐するようになったことである。このもとで、小平市の医療と福祉は、一九六〇年代に進展をみせ、小平市では医療と公衆衛生に取り組み、地域精神衛生業務連絡会(以後、連絡会)は医療と福祉を地域ぐるみで取り組む意義が熱心に議論され、小平養護学校は教育の方法や設備に発展がみられて在校生が増加した。一九六九年にできた連絡会は、精神病院や民間の福祉施設、小平市福祉事務所、小平保健所などの担い手を結ぶものであり、これにより医療と福祉を地域全体で担う機運が高まったが、本項で叙述する一九七〇年代の小平では医療と福祉をめぐる取り組みと担い手がひろがり、連携と認識が深まったのとくらべると、一九六〇年代は、いまだ別個に医療と福祉に取り組む傾向が強かった。
第四の画期の一九七〇年代について概況をまとめておく。
小平市社会福祉協議会は、一九六五年から小平市と共催していた老人福祉大会に加え、一九七四年から社協福祉まつり、一九七五年から身体障害者福祉大会を開くようになった。民生委員(児童委員を兼ねる)の活動も活発になり、小平市でも福祉への取り組みを拡充するなかで、一九七二年に福祉会館を開館させてとくに高齢者福祉を充実させ、一九七五年には厚生省による「老人のための明るいまち推進事業」のモデル市に指定され、一九七九年には障害者福祉都市推進事業に認定されている。一九七〇年代の福祉行政では、とくに高齢者福祉と身体障害者福祉に力が入れられている。
図7-44 身障者福祉大会での楽器演奏
『小平社協二十年の歩み』
小平市には、小平身体障害者協会や小平肢体不自由児父母の会、小平精神薄弱者育成会、小平市婦人福祉連絡協議会、小平市母子福祉会、小平ボランティアの会など、福祉の団体が多く存在していた。こうしたなかで、一九七三年、障害者の問題全体を視野におさめ、権利を向上させる「障害者の権利を守り生活の向上をめざす会」(以後、めざす会)が結成された。今までの福祉団体の多くが身体障害者をサポートするものであり、身体障害者自身の団体も存在していたが、身体障害者自身が中心になり、身体障害者の問題全体を解決するためには権利(生存権)が不可欠だと位置づけたのは、この団体がはじめてだった。一九六九年に小平でできた連絡会が、市内の精神病院や福祉の施設と機関、保健所などを結び、担い手をつないで、医療と福祉を地域ぐるみで連携して取り組む大きな画期になったのにつづいて、めざす会の結成は、市内の福祉の諸団体や小平養護学校をつなぎ、小平で福祉の認識を深めるうえできわめて大きな役割を果たした。
めざす会の運動を基点にして、一九七四年に共同作業所「あさやけ作業所」がつくられた。小平養護学校のPTA主体ではじまった小川駅エレベーター設置運動は、めざす会と連携するなかで、小平の多くの人びとを集めた「小川駅の改善をすすめる会」の設置に結びつき、小平市議会や小平市とも連携するなかで、一九八一年、小川駅にエレベーターが設置された。小川駅のエレベーター設置は、一九七〇年代の小平で医療と福祉をめぐる取り組みと担い手がひろがり、認識が深まる象徴にほかならなかった。
以下、本項と次項「運動」の二つの項で一九七〇年代の小平の福祉と医療を取り上げる。めざす会の結成から小川駅エレベーター設置に至る過程は次項の「運動」で叙述し、本項ではそれ以外のテーマを取り上げる。