一九六三(昭和三八)年に政府は老人福祉法を制定した。それまで高齢者福祉は生活保護の一分野くらいにしか位置づけられていなかったが、これ以降、高齢者福祉への取り組みが増していくことになる。
六五歳以上の高齢者人口は、全国で七・一%(一九七五年)、七・九%(一九八〇年)と増加するのに対して、流入人口の多かった小平市の場合には、同じ時期に四・三%、五・六%であり、全国平均よりも少なかったが、一九七〇年代は、小平市で高齢者福祉が拡充する時期であった(『小平市三〇年史』)。
たとえば、ホームヘルパー派遣事業は、一九六六年から家庭奉仕員としてスタートし、高齢者の家庭を訪問して、洗濯や買い物、身の回りの整理などを手伝った。一九七三年には老人家庭援助者制度ができ、週に一回派遣されることになった。訪問給食サービスも一九七五年から週一回ではじまり、一九七七年からは週三回に増えた。小平市ではじめての特別養護老人ホーム(重い心身障害があって介護を必要とし、居宅での介護が難しい六五歳以上の高齢者対象)が、一九七七年に多摩済生園としてオープンしている。
高齢者福祉への取り組みは、小平市医師会ともかかわりが深い(『小平医師会史』)。小平市医師会は一九七三年に法人化して公益事業団体になった。これ以降、医師会は、公益事業団体として地域医療、福祉医療の取り組みを強化するようになった。一九七四年、小平市医師会は市の委託事業として「ねたきり老人医師訪問事業」を受託し、南台病院を実施機関として指定する契約を結んだ。これは医師会の地域医療の一環であり、医師みずからがおこなう医療と福祉の連携事業だった。
発足当初、医師三名、看護婦・理学療法士・ケースワーカー・マッサージ師・放射線技師・検査技師各一名をスタッフとし、医師は交代制で週三回訪問、看護婦は毎日訪問し、対象者と家族の健康管理、機能回復訓練と医学指導・助言をおこなった。対象者の家に連絡簿をおき、病状把握と主治医・スタッフ間の連携に役立てた。連絡簿は小平にしかない特色といわれた。
ねたきり老人医師訪問事業は、小平の福祉と医療に大きな意味をもった。今までほとんど光のあたらなかった「ねたきり老人」に光があたり、高齢者福祉の重要な課題があることが明らかになった。一九七八年から日体桜華女子高校に社会福祉研究部が設置され、部員の女子高校生がボランティアとしてこの事業に参加したり、国立武蔵高等看護学院の看護学実習として同事業がとりあげられたりしたのは、この事業の与えた影響の大きさを物語っている。対象者の家におかれた連絡簿が、対象者と家族、主治医・スタッフを結ぶとともに、主治医とスタッフの連携も深めたことは、地域医療の展開、地域における福祉と医療の連携にとって大きな意味をもった。
事業を受ける対象者は、小平市民でねたきりと診断され、福祉手当を受けている六五歳以上の老人であり、一九七四年から六年間の対象者合計は一八一名だった。事業の結果、死亡率の低下や介護を必要としなくなった人の割合増加、疾病の早期発見や散歩ができるようになったこと、精神的効果の向上が指摘される反面、介護者がかかえる負担の大きさや、老人と家族の葛藤の大きさなどがみえるようになったなど、この事業で浮き彫りになった問題も少なくなかった。