一九六九(昭和四四)年に設置された地域精神衛生業務連絡会については、第六章第四節4で記した。連絡会のその後はどうだったのか、ここでは、一九七三年から一九七七年にかけて、連絡会に参加する保健婦やケースワーカー、医師、看護婦らが連携をとってサポートした例を紹介する(『地域精神衛生活動のあゆみ』ほか)。
一九七三年八月、市内で高齢の男性が亡くなり、同居していた高齢の妹だけが残された。この女性は、かつて「精神分裂病」と診断されており、兄が働いて妹の生活をみていた。兄の死亡により、妹は突然単身世帯になり、収入がとだえてしまった。この女性を心配した福祉事務所のケースワーカーは、女性の生命の安全を確保する必要を感じ、保健所の保健婦に早期の入院を依頼をした。この女性は、一九六九年の事故退院後、入院をこわがり、医療関係者との接触を拒むとともに、生活保護の申請も拒否していた。保健婦は、過去の入院経験からすれば、早急に入院させようとするよりも、その女性と話し合える関係ができるように働きかけることが先決だと判断した。一方で、小平市福祉事務所の嘱託精神科医は、単身者で閉じこもり状態が続けば栄養失調になりかねないと判断し、早期の入院をすすめていた。他方で、その女性に対して近隣住民の不安がましていた。
このようなケースの場合、それまでであれば入院措置をすすめる立場にある嘱託医やケースワーカーの意見が優先され、この女性は入院に至ったのではないかと思われる。だが、連絡会が存在し、医者や保健婦、ケースワーカー、看護婦らの連携がとれており、地域で福祉と医療を担う発想をもっていたので、関係者は異なる意見をめぐって話し合った結果、当面はその女性の不安をやわらげるために保健婦が単独で訪問を続け、その女性との接近を試みることになった。連絡会の役割がいかされた判断だったと思われる。