図7-49 『めざす会ニュース』創刊号 1973年8月20日
会長は本家慶昭。生後百日でポリオにかかり、両手足および首まで固定できず、首がすわるまで八年間も自宅の天井のふし穴をながめ、生死の境をさまよったという。抜群の記憶力と知識があり、小平市との交渉で大きな力を発揮する。碁で生計を立てていた。
副会長は二人いる。視覚障害にも負けずに日夜運動にとびまわり、一日二~三時間の睡眠で一七の役をこなしている人と、もうひとりが小児科医で東京学芸大学の教員であり、いつも障害者・障害児の問題に取り組み、信頼を得ている人である。事務局長は小平養護学校の教員であり、障害児運動に全力をそそいでいる。そのほか、オリンパス光学に勤めて、縁の下の力持ちになってくれて信頼を得ている人、小平第二小学校の障害児学級の教員で、日本の障害児教育について理路整然とした説得力をもっている人、小平保健所に勤め、日本の医療について真剣に考えるとともに、座がいつもにこやかになる人、東京学芸大学附属養護学校の教員であり、小平市の障害者生活実態調査で力を発揮した人、武蔵野第二小学校の特殊学級教員で、どんなことでもスマートにこなせる人、そのほか、小平養護学校に勤務する人や、文房具屋さん、大学で社会事業を学ぶ学生などがめざす会の役員であった。
なぜこれらの人びとがめざす会に参加をしたのか。発足から四年後、会長の本家は、参加の機運と参加する人びとがそろった条件が力を発揮したとして、次のように説明する(『めざす会ニュース』第三四号)。これらの人びとは、たとえば、窓口福祉ではなく出向福祉への発想転換を主張していたケースワーカーや、安心して地域で福祉が受けられる町にすることが使命だと考えていた保健婦、教育現場だけの取り組みだけでは子どもの発達権を守れないとする障害児学級・学校の教職員、小平市政の分析から障害者施設が不十分だと気づいた学生などだった。これらの人びとはみな、「障害者問題の要諦」を障害者が「暮らす地域に求め、その変革のために心を合わそう」としたのであり、「めざす会」は、さまざまな人たちの「画期的共鳴から誕生」したのである。それぞれの機運と参加する人びとがそろったことがめざす会の運動の推進力になった。
会長の本家は、めざす会の活動の節目ごとに『めざす会ニュース』に文章を寄せている。めざす会の出発点にあたり、めざす会は何をめざすのか、「何故新しい障害者(児)のための組織が必要なのか」といった質問を受けていた(『めざす会ニュース』創刊号)。これに対して本家は、現在必要なことは、運動を「巨視的に捉えられる組織」であり、障害者をめぐる問題の「社会的認識の深化」をはかる「市民運動」だと述べている。
本家は、ここで述べたことの意味を、めざす会結成一年目のときによりわかりやすく説明する(『めざす会ニュース』第一二号)。めざす会は「市民運動によって問題の解決にあたることを基本にしている」。それは、「地域の特性にしたがって課題を設定する」(――傍点は引用者)ということであり、めざす会は、市内の身体障害者の生活実態調査から、小平養護学校卒業生の進路問題、精神者家族会の中心課題に職業的なリハビリテーションがあることを知り、この問題に取り組むために、次に述べるあさやけ作業所の設置運動をおこなったと述べる。「地域の特性」をふまえて課題を設定するということが「市民運動」に取り組むということであり、ここから「対岸の火事」のような身体障害者問題に対して「共感に支えられた認識の分有」が地域でみられるようになった。
めざす会発足後一年半の時点で本家は、あさやけ作業所の取り組みのひろがりを「生存権的基本権である働く権利を護ろうとする連帯の輪の拡がり」として受けとめ(『めざす会ニュース』第一八号)、会発足後二年を経過した時点での運動のひろがりに対しては、「障害者問題顕現の時代」として、それまで地域で障害者問題に距離のあった人びとの共感を得ることができるようになったとしている(『めざす会ニュース』第二五号)。
本家の文章を読むといくつかの特徴に気づかされる。あくまでも「地域の特性」に即して具体的に課題を提示していることであり、それを必ず「生存権的社会権」などの権利、社会認識と結びつけて説明していることである。具体的な問題を抽象的な権利や社会認識と結びつけた本家の考えは、めざす会の運動を支える重要な役割を果たしていたのである。
図7-50 本家慶昭「課題」 1975年
『めざす会ニュース』創刊号、1975年9月15日