あさやけ作業所の運動

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めざす会に集まる小平養護学校の教職員たちは、みずから障害者のための作業所づくりの準備をはじめた。開設準備金を集めるために街頭カンパや市役所、労働組合などへのカンパ要請行動を重ね、目標の倍近い七〇万円を集めることができた。作業所開設に先立つ障害者や家族、学生、教職員などの話し合いでは、作業所を賃金を得る働く場にするだけでなく、話し合いやレクレーション、自治活動などをおこなえる場にする希望が縷々語られた(『ああ エレベーター』、「めざす会ニュース」第一〇号)。
 一九七四(昭和四九)年六月九日、市内上水本町の民間アパート二間を借り上げ、小平養護学校の卒業生で重度の障害をもつ五名が通う「あさやけ作業所」が開設された。「障害が重くても働くことを通して社会と結びつき、生きる喜びを感じられる社会」をめざし、「障害者の程度をこえた集団づくり」「重度障害者の労働保障のとりくみ」「地域に根ざした作業所づくり」を掲げてのスタートだった。

図7-51 あさやけ作業所で働くようす
『あさやけの仲間たち』

 出発当初の生活介助は、公民館の婦人学級で学んだ女性たちなどが交代で担当し、週三日間開所して、ヨーグルトのヘラの袋詰め作業がおこなわれた。ヘラ一つで五銭と工賃は非常に安かったが、卒業生たちは、作業所を得て、自分たちも働ける自信と社会参加の喜びをもてるようになった(『ああ エレベーター』)。

図7-52 あさやけ作業所の1日のスケジュール
『あさやけの仲間たち』

 民間の共同作業所は公的助成が乏しく、財政は大変に厳しかった。開設から三年後の一九七六年度における決算をみると、八〇六万円の収入のうち、東京都・小平市あわせた公的助成はわずか一七%であり、これに対して廃品回収、バザー、団体カンパ、販売をあわせた個人の善意に依拠する割合は五割をこえた(近現代史料集⑤ No.二七八)。作業所でもっとも大事な作業工賃は三・四%(二六万円)であり、一人当たりの生産高は増えているにもかかわらず、内職的な仕事では限りがあり、「仲間にふさわしい職種の開拓」が必要だとしている。この年は入所者が一一名から一六名に増え、広いスペースをもつ建物に移転したので、職員も一名から三名に増員し、そのため人件費や入所者の送迎用のガソリン代や車の維持費が大きな負担になっていた。
 財政は大変に厳しかったものの、あさやけ作業所は地域の人たちや企業、団体にくりかえし働きかけ、理解を得ることにつとめた。一九七五年の廃品回収では、生協グループや町内会との協力体制をしき、一〇〇〇件以上の協力を得ている。廃品回収は、「単に財源確立のための収益を目的としたものではなく、地域住民との恒常的な接触という意味からまさに〝あさやけ〟づくりの基盤そのもの」であり、「重要な運動」だった(『あさやけだより』第八号)。一九七六年二月に作業所が小川東町に移転する際には、「地域住民との協力関係を重視し、自治会々長およびアパート近接住宅への訪問、自治会(森山自治会)加入」(同前)にいち早く取り組んだ。バザーの協力・協賛店・団体をみれば、近隣の商店や事業所から銀行・生命保険の小平営業所、スーパーなど、小平市内の商工業のほとんどにおよんでいる。あるNHKの記者は、あさやけ作業所の人たち自身が、「作業所づくりの運動」を「障害者の総合保障の環として捉えている」ことと、「運動の礎石をなす地域の支持の厚さなどを称賛」(『あさけやだより』第一八号)している。
 『あさやけだより』に連載された「あさやけを支える人たち」は、あさやけ作業所のあり方をよく示している(近現代編史料集⑤ No.二八四~No.二八六、『あさけやだより』第三九~四五号、第四九号)。「あさやけを支える人たち」とは、小平のうたごえサークル「ハミングチューチュー」の会長としてあさやけの支援コンサートに協力してくれた人であり、公民館や地域でパンづくりの教室を開き、バザーのたびに手づくりパンを出品してくれる女性であり、毎週木曜日に自転車に乗って作業所に通ってくる福祉訪問員の人であり、ラジオ部品組立ての仕事をあさやけに出してくれる「協和のおばさん」であり、自分たちの詩をつくりたいという声に、仕事を休んで毎週あさやけに来てくれる三多摩合唱団の人であり、あさやけの人たちを撮りつづけているカメラマンであり、小平保健所の職員として精神障害者に対する仕事をしながらあさやけで相談にのってくれる人であり、川崎市から毎日通って「子どもクラブ」を支えてくれる人などである。

図7-53 あさやけ作業所の仲間たちの音楽会 1978年
『あさやけの仲間たち』

 広範な人たちがあさやけを支えたことがよくわかる。ただし、彼らは一方的にあさやけを支えたのではなく、「あさやけの仲間たちへのとりくみが、僕自身を豊かにしてくれたんだ」と実感し、「あさやけの人たちが、がんばっている姿をみて、はげまされます」とも感じていた。それゆえ、「あさやけの人たちは、仕事に対して甘いわよ」、「だらしがない」と厳しい注文も出たが、注文も含めて、「弱い人々が胸をはって生きられる地域全体でそれをささえあえる、そんなふれあいのある地域をつくっていきたい」という願いがあさやけを支える気持ちの底にあった。小平市の内外であさやけを支えた多くの人たちや地域(廃品回収)、商店・企業・団体(バザー)のなかには、支えると同時に支えられるつながりができてきたのであり、こうしたなかで福祉に対する認識が市内に少しずつ浸透したのである。