肢体障害者のためのあさやけ作業所ができてから二年たった一九七六(昭和五一)年六月、先に紹介した地域精神衛生業務連絡会に集う医療・福祉の専門家から、精神障害回復者のための作業所設置の要望が出された(『地域精神衛生活動のあゆみ(第Ⅱ集)』)。小平市とその周辺には精神病院が多く、入院患者で状態がよくなっても、ほかに受入れ体制がないので長期入院になったり、入院を必要としてもベッドがあいていないので入院できなかったり、在宅で地域とふれあわずに生活していたりする人がいる。このような状態を改善するために、回復者が通える場がほしい、というのがその理由だった。精神障害回復者のための作業所というのは例がなく、話し合いを重ねた結果、あさやけ作業所が最初に使用したアパートを再び提供してもらえることになり、当面は、一九七六年の一〇月、国立武蔵療養所退所後に単身でアパートくらしをしている男性一名が入所し、地域の主婦によるボランティアの職員三名であさやけ第二作業者がスタートした。月曜日から金曜日の午前一〇時から午後四時まで、万年筆の箱の組立て、マッチ箱の組立て、わかめ、コンブアメの袋づめの作業をおこなった。
入所希望者が増え、財源の問題も厳しかったが、一九七七年四月からは入所者九名、専任職員二名になった。入所者が増えると、状態が安定してきた人の就職問題が話し合われ、ここから、作業をとおして生活訓練をする人たちと、就職をめざす人たちを集団として分けることになり、新たに一九七七年五月にあさやけ第三作業所をつくり、前者の人は第二で、後者の人は第三で働くことになった。あさやけ第二・第三作業所の開設にあたっては、地域精神衛生業務連絡会に集う人たちの尽力がきわめて大きかった。
無認可でスタートしたあさやけ作業所は、入所者が増えるものの、財源や場所の問題など多くの問題をかかえており、ここから認可施設の建設をめざすことになった。認可には多くの困難があったが、用地は日本鉄道公団の土地の払い下げを受けることができ、土地取得の資金は市民に引き受けてもらった債券と、小平市の便宜による補助金でまかない、東京都も申請事務を短縮してくれた結果、一九七八年には社会福祉法人「ときわ会」を設立し、ときわ会が経営する知的障害者通所授産施設「あさやけ作業所」を定員三〇名で開設することができた。認可問題では、小平市と東京都が「積極的」に対応し、小平市は、助役や部長が、「好意的な姿勢」を示し、東京都も申請事務短縮を「かなりの速度」で進めてくれた(『あさけやの仲間たち』)。