めざす会は、駅近隣の障害者にも呼びかけ、西武鉄道に事情説明を求めたが、西武鉄道は既定方針通りに工事を進め、障害者の利用については特別に考えていないと回答した。めざす会は、急遽、花小金井駅で署名を集め、一〇日間で集めた二八〇〇名の署名をたずさえて、西武鉄道と再度の懇談をもった。その結果、障害者専用の構内踏切とホームへのスロープが設置されることになった。障害者に限られたことに問題が残されたが、困難がもっとも大きい車イス利用者を中心とした身体障害者の利用が守られたことは、運動の大事な成果であった。
一九七〇年代半ばに教育権保障運動が盛り上がるなかで、小平養護学校のPTAは、学校内の教育条件整備から、さらにそれまでほとんど取り組まれていなかった重度障害者の卒業後対策に向かうことになった。作業所づくりはその一環であり、一九七五年秋には、さらに三多摩の三五市町村を対象にした「身障者の生き方と環境」のアンケート調査に取り組み、PTAの総力をあげて集計・分析・まとめ・資料づくりをおこなって、東京都養護学校PTA連合会及び校長会主催の研修会で発表した。身障者の生活実態について、これほど大規模なアンケート調査は例がなく、研修会での発表は大きな反響を呼んだ。
一九六五年から七六年まで小平養護学校のPTA役員だったある女性は、研修会までの一か月余りのあいだ、「PTAはまさに燃え」、調査をふまえた一一月の学習会ほど、「活発で熱気に満ちた会はなかった」と述懐している(『ああ エレベーター』)。この取り組みをつうじて小平養護学校のPTAは、重度障害者の卒業後の問題に真剣に向き合うことになった。ここから、二年前の花小金井駅改善の取り組みに学び、めざす会の協力のもと、小平養護学校の多くの生徒が使う西武新宿線小川駅の改善に取り組む運動がはじまった。
一九七六年二月二六日、「小川駅の改善をすすめる会」(以後、すすめる会)が発足した。PTAの積極的な働きかけにより、発会式には、めざす会だけでなく、養護学校の隣りにもかかわらずそれまであまり交流のなかった多摩緑成会整育園や東京都身体障害者職業訓練校をはじめ、小平市社会福祉協議会役員や小平市議会議員、民生委員、老人会や障害者団体の人びとなど、さまざまな顔ぶれが集まった。すすめる会には地域の市民グループも応援した。一九七〇年代の小平市公民館の講座から誕生した自主グループ「小平・教育を考える母親の会」は、『母親のみた小平の教育』(一九七四年)をまとめ、冒頭で障害児・者の教育と街づくりを検討していた。この自主グループのメンバーを含む「小平の高校増設をすすめる会」は、増設された小平西高等学校に障害者用のエレベーターを設置する熱心な推進団体であり、すすめる会にも積極的に参加していた。
小平養護学校は小平にあったものの、都立であったためにそれまで地域との交流が乏しかった。すすめる会の活動をとおして、養護学校は地域の商店街の人たちと共同のサマーフェスティバルなどを実施するようになった。小川駅の改善をすすめる運動は、それまで地域にあったさまざまな垣根や学校問題という枠を乗り越えて、障害のある人たちと地域の人たちが共同で取り組む街づくり運動に発展していったのである。
一九八一年に小川駅にエレベーターが設置された。設置にあたり、二つの方面で取り組みがあった。一つは、小川駅の改善をすすめる会を中心にした福祉の運動であり、すすめる会は、これ以降、アンケート調査や西武鉄道との交渉、小平市議会への陳情に粘り強く取り組んだ。もう一つは、小平市の福祉行政であり、一九七九年に障害者福祉都市に指定された小平市は、一九八一年の国連の国際障害者年の事業にエレベーター設置を位置づけた。以上の二つの取り組みの結果、懸案だった資金問題が解決され、総工費一億六〇〇〇万円は小平市、西武鉄道、その他の寄付でまかなわれることになった。
図7-54 小川駅エレベーター設置工事のお知らせ
『小平社協二十年の歩み』
図7-55 設置された小川駅エレベーター
『小平社協二十年の歩み』
小川駅のエレベーター設置は、一九七〇年代の小平市でそれぞれ取り組まれていた福祉の運動と福祉の行政が連携した事例だった。エレベーター設置の過程をまとめた『ああ エレベーター』には、小平養護学校に通う一六歳のA子が小川駅のエレベーターも使い、先生や医師など多くの人に助けられて、渋谷のNHKホールで開かれたコンサートに出かけた顛末(てんまつ)が紹介されている。小川駅のエレベーターは、小平の人たちの福祉認識を変えるだけでなく、障害者の行動の世界を大きく推しひろげていったのである。