福祉・医療・教育を軸にしたくらしの仕組み

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図7-56 小平市立の障害者福祉センター 1985年
『小平社協三十年の歩み』

一九六〇年代末から七〇年代の小平市では、福祉の行政が進展した。民生委員・児童委員の活動が活発になり、一九七二年に福祉会館が開館する。小平市社会福祉協議会は、一九六五(昭和四〇)年から小平市と共催していた老人福祉大会に加え、一九七四年から社協福祉まつり、一九七五年から身体障害者福祉大会を開くようになった。小平市は、一九七五年に厚生省による「老人のための明るいまち推進事業」のモデル市に指定され、一九七九年には障害者福祉都市推進事業に認定されている。一九七〇年代の小平市の福祉行政では、とくに高齢者福祉と身体障害者福祉に力が入れられている。
 市内では、一九六九年に小平の精神科医、看護婦、保健婦、ケースワーカーらが中心になって地域精神衛生業務連絡会が設置され、精神病の人たちの医療を施設から地域にひらき、地域全体でケアする試みがはじまっていた。次いで一九七三年には、「障害者の権利を守り生活の向上をめざす小平の会」がつくられた。小平養護学校の教職員や地域の障害者、障害者の家族、保健所職員やケースワーカー、障害児学級・養護学校の教員・保護者などが担い手であり、障害者や福祉に携わり、関心をもつ人びとが集まり、障害者をめぐる問題全体に取り組む福祉の運動が大きく進展した。
 一九七〇年代の小平市では、公民館が増設され、社会教育の取り組みもひろがりをみせる。公民館の利用者懇談会や青年学級連絡会ができ、参加者が社会教育に自主的にかかわる度合いを強めた。社会教育のテーマも、それまでの青年と女性に向けたものから、さらに障害者や高齢者に向けた社会教育がはじまり、社会教育に参加しやすくするために保育室も開設された。小平第二小学校には、一九六二年に、障害児のための特殊学級である若草学級が設置されていた。若草学級には、市内全域から障害児が通っていたが、一九七〇年代初頭まで、普通学級の児童や保護者との交流は乏しかった。一九七四年、小平第二小学校のPTA広報誌に、若草学級に子どもを通わせる母親から投稿があったことから、若草学級と普通学級の交流、保護者同士の交流がはじまった。
 志望する都立高校に進学できなかったり、「中学浪人」の危険性があったりする状況のもとで、一九七四年には、「小平に都立高校増設をすすめる会」がつくられ、都立高校増設運動が取り組まれた。運動の結果、一九七七年四月に小平西高等学校が開設された。高校増設をすすめる会では、高校の増設とともに教育環境の充実を重視し、東京都に要望を行った結果、都立高校としてはじめての障害者用のエレベーターとトイレが設置された。
 以上のように、一九七〇年代の小平市では、地域社会や小平養護学校、公民館、小学校など、市内の各所において福祉をめぐる問題が提起され、福祉・医療・教育を軸にしたくらしを支える仕組みが追求されるようになった。