小平で福祉という言葉が使われるようになるのは一九六〇年代からである。小平では、一九六〇年代末から七〇年代にかけて、個々の福祉の課題に取り組む段階から、さらに進んで障害者全体、福祉全体の課題に取り組む段階に移行した。福祉を軸にして教育や医療と連携した総合的な取り組みをめざし、病院や学校、施設のなかで福祉に取り組む状況から地域全体で福祉に取り組む状況に移行している。
一九七〇年代の小平では、福祉の行政と福祉の運動がそれぞれ取り組まれていた。本章第一節で一九七〇年の「長期総合計画」についてふれたように、一九七〇年代の小平市の行政課題は「開発」が中心であり、福祉の行政は個々の課題に取り組む段階にあった。小平市で、福祉の行政の位置づけが高くなるのは、一九八五年の「新長期総合計画」からであり、さらに、一九九三年に小平市地域保健福祉計画が策定されてからだった。第八章第三節で詳しく述べるように、小平市の福祉行政は一九九〇年代から二〇〇〇年代に大きく進展し、福祉の総合的なまちづくりが進められている。
一九七〇年代の小平市が福祉の時代をむかえるうえで、福祉の運動がはたした役割が大きかった。福祉の運動のなかで指摘されたことをあらためて記載すれば、精神障害者を「地域ぐるみ」で支援する(地域精神衛生業務連絡会、五七八頁)、障害者の問題は、「生活・教育・医療・労働、街づくり」全般の課題(障害者の権利を守り向上をめざす小平の会、七三五頁)、あさやけ作業所は「生存権的基本権である働く権利を護ろうとする連帯の輪の拡がり」(七三九頁)、などのことがいわれていた。小平市において、「地域ぐるみ」で福祉に取り組む考えや、福祉を「生活・教育・医療・労働」と結びつけ、「街づくり」の課題とする考え、「生存権的基本権」と位置づけ、地域で「連帯の輪」をひろげる考えなどは、いずれも福祉の運動のなかで手さぐりで提起され、ひろがっていったものだった。
小平の福祉の運動のなかでは、まず精神医療に携わる人たちで地域精神衛生業務連絡会がつくられ、障害者の問題全体に取り組む障害者の権利を守り向上をめざす小平の会が設立され、身体障害者の人たちが働くあさやけ作業所がつくられた。なかでも「地域ぐるみ」の福祉の運動をすすめるうえで、大きな役割を発揮したのは、あさやけ作業所だった。公的助成がきわめて乏しく、財政的基盤が弱かったあさやけ作業所は、出発の当初から、地域の人たちや企業、団体にくりかえし働きかけ、理解をえるようにつとめた。設立二年目の一九七五年の廃品回収では、生協グループや町内会などから一〇〇〇件以上の協力をあおぎ、バザーの協力・協賛団体は、小平市内の商工業の企業・商店などのほとんどにおよんでいた。あさやけ作業所の人たちは、「作業所づくりの運動」自体を、「障害者の総合保障の環」と位置づけていた(七四二頁)。福祉の運動は一方的に支援を受けたのではない。支援をする多くの人たちが、逆に福祉の運動からはげましを感じ、福祉の運動では、「弱い人々が胸をはって生きられる地域全体でそれをささえあえる」まちづくりがめざされるようになった(七四三頁)。小平市のなかに、支えると同時に支えられるつながりができてきたのであり、福祉の運動を通じて、文字通り「地域ぐるみ」で福祉に取り組む「街づくり」がすすんでいった。さまざまな市民がともにくらす地域をつくるうえで、福祉は諸課題をつなぐ「総合保障の環」になるものだった。
図7-57 あさやけ作業所「ありがとうコンサート」 1980年
『あさやけだより』第47号、市民活動資料・情報センターをつくる会所蔵
一九六〇年代末からはじまった小平の福祉の時代は、一九八一年の小川駅エレベーター設置でひとつの区切りをむかえる。小川駅のエレベーター設置は、一九七〇年代の小平市で、それぞれ展開していた福祉の運動と福祉の行政が連携した事例だった。この時期の小平市では、ともにくらすまちづくりの考え方がひろがったのである。