コラム 『岳物語』と椎名誠と小平

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 小平の作家といえば椎名誠が有名である。椎名の文章のなかで、もっともよく読まれているのは『岳物語』『続 岳物語』だろう。椎名の息子の岳の成長と自立の物語である。この『岳物語』に小平がよく登場する。ここでは、『岳物語』のころの椎名誠と小平のかかわりを書いてみよう。
 一九六八年五月に結婚した椎名は、小平市津田町に転居した。一九七〇年に長女・葉、七三年に長男・岳が生まれる。そのころの小平は色濃い緑に囲まれていた。椎名の家の前には、クヌギやナラの繁る雑木林があり、野鳥がいつもやってきた。椎名の文章には、二人の子どもと遊ぶ小平がよく登場する。近所の原っぱの柚子の木から息子と一緒にアゲハチョウの幼虫をたくさん採集したことや、夏の早朝に、玉川上水の川べりでたくさんのクワガタをつかまえたこと、近くの赤土広場で娘に自転車の乗り方を教えたことなどである。椎名は、のちにこれらのことをよく妻に話しては、それはもう一〇回くらい聞いたわ、と言われたと書いている。
 一九七〇年代の小平の記憶であり、椎名の記憶は岳の思い出と重なるところが多い。岳のなかの小平とは、小学校に入る前の、近所の林のなかにあったクワガタのいる木や、丘の上に立つ怪しいプレハブ小屋であり、「たくさんの喜びと、謎と恐怖、そして未来」がつまった玉川上水である(渡辺岳『「岳物語」と僕』)。『岳物語』には、一晩で一八匹のアゲハチョウ全部が羽化し、家のベランダから岳が、「よおし、とんでいけ」とかけ声をかけて空に放つシーンが描かれている。
 だが、小平の一九七〇年代は、同時にこれらの風景や原っぱが消えていく時期でもあった。郊外化の波のなかで宅地開発が急速に進んでいた。椎名が小平に来て五、六年すると、自宅の前の雑木林は地主によって伐採され、やがて建売住宅に変わった。『岳物語』では小平市内の整備も話題になっている。岳が小学一年生の一九八〇年、口をとんがらせて、「あっちゃん山公園のところがまたゲートボール場になっちゃった」、ぼくたちが野球をやれるのは中央公園しかないけど、あそこはおじさんたちがすぐ怒ってくると、「おとう」(椎名)に話す。
 中央公園の場所には、もともと、戦時中から蚕と絹の研究施設があり、戦後も研究施設と桑畑、銀杏の大木がひろがっていた。施設と桑畑は一九七二年に茨城県に移転する。『岳物語』では、市ははじめ、桑畑をつぶしてだだっ広い草原にしたので、草野球や子どもたちの野球・サッカーがおこなわれ、散歩や草野球の見物にたくさんの大人が集まったとある。椎名も日曜日のたびに保育園に通う岳とこの草原で遊んだ。
 市は、この草原を総合体育館や野球場などの体育施設がある運動公園として整備した。『岳物語』では、限られた人の競技スペースをつくるよりも、子どもが元気に走りまわれる場所をつくる方が先決ではないかとある。本書の第七章第五節2には、小平一小のPTAが蚕と絹の研究施設跡を子ども遊び場として整備・開放すべく市に働きかけ、一九七七年にひとたび中央公園として開放されたが、一九七九年になると運動公園に整備し直されたので、子どもの自由な遊び場がなくなったことが書かれている。
 一九七〇年代の小平には、未整備の原っぱや空き地、雑木林が残り、幼い岳は、おとうと思いっ切り遊んでいた。その岳は一九八〇年に小学校に入り、学年を重ねるごとに市外に世界をひろげ、おとうと距離をとるようになる。その過程はまた、小平で開発と整備が進む時期にほかならなかった。『岳物語』は、岳の自立と成長の背後で、武蔵野の風景や自然の残る小平から、開発と整備の小平へ変化したことを教えてくれる。

図7-58 椎名誠の著作