食文化としてのうどん

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武蔵野手打ちうどん会は、故加藤有次國學院大学名誉教授を中心に結成され、一九八八(昭和六三)年一二月には機関誌『饂飩』を創刊し、一九九七(平成九)年には一〇周年記念号(第一〇号)を刊行している。創刊時一五八名の会員も創立一〇年を迎えた時点では二四五名に増加し、いまでは食するだけではなく、「先人達が産み出してくれた郷土に伝わる」(「武蔵野手打ちうどん保存普及会設立趣意書」)うどんを、幅広い視野からとらえかえし、その歴史からはじまり経済的、文化的役割までを市内外に発信し続けている。

図8-5 武蔵野手打ちうどん保存普及会のうどんを食べる客 2011年

 生活の中でうどんがどのように食べられたかをたどると、小平地区の年中行事が明らかになる。会員の一人、中島淑子は、うどんの食生活をとおして小平の年中行事を「うどん歳時記」としてこと細かに描いた(「うどん歳時記」)。
 また保存普及会は、一九八八年から市内の小学生を対象に手打ちうどん講習会を開き、子どもたちにうどんを作る工程のほか、食文化としてのうどんなども紹介し、さらにはともに食する食事の楽しさ、喜びを提供している。この講習会を受けた小学生は、「私ははじめて手打ちうどんを作りました。〔中略〕足でふむとき二回目の方が上手にできました。〔中略〕それからうどんをみんなで食べました。〔中略〕帰るときにあまったうどんをもらって帰りました。お父さんに食べてもらったら、『おいしい』といってくれました。お母さんが『今度、家族でうどんを作りましょう』といいました。私も自分たちで作ったうどんは最高に最高においしかったです」と、その感動を記している(『饂飩』第二号)。
 うどんは、小平の食生活を代表するものであった。水田が皆無といってよい小平にあっては、米は陸稲で、主食は麦であった。冠婚葬祭や縁日(モノビ)などのハレの日に必ず出されたのがうどんであった。そのうどんに季節の野菜、小松菜やほうれんそう、なす、大根やにんじんなどを添えた「糧(かて)うどん」が、現在、小平の名物となっている。
 このうどんへの想いを語る小平の人は少なくない。厳しい軍隊生活のなか帰省したおり、故郷小平で食べた「煮込みうどんと母の愛」を重ねる人物(「わがうどんの懐古」)もいれば、うどん作りに失敗し、姑に叱られるのを恐れて「裏の竹やぶに穴掘って埋めちまった」新妻もいる(「饂飩むかし」)。さらに余命幾ばくもない、食も細くなった末期の癌患者が、突然、「関根屋のうどんと団子がくいたい」と言い、関根屋さんに汁をわけてもらって調理してみると、「何と、団子を二ヶ、うどんを昼、夜で一玉」食べ、これをきっかけに食事の幅がひろがり、それから半年ほど延命した(『ストンチョ通信』最終号)、といろいろである。