新田「開発」から明治の「改良」へ

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小平の「開発」の出発点は近世新田開発にある。『小平市史 近世編』および本書第一章で明らかにしたように、新田開発は小平の村のあり方と地域意識を大きく性格づけた。そのことがよくわかるのが明治政府の地租改正政策に対しておきた地価修正反対運動である。ここでは、武蔵野新田としての由緒が反対運動における地域結合の根拠になっており、新田開発村の由緒をふまえ、農業生産性が低いので地価を優遇してほしいという訴えがおこされた。新田開発村では、地価修正反対運動以前から幕府への嘆願の理由に生産性の低さを訴える新田開発の由緒が用いられていた。地価修正反対運動でもその由緒が主張されたのである。だが、神奈川県は地租改正にあたって新田開発の由緒を明確に否定した。これ以降の小平の歴史で、減税の要望などに武蔵野新田の由緒があらわれることはなかった。小平の近代は、新田開発村の由緒の否定のうえに出発したのである。
 新田「開発」の由緒に対して、明治以降の小平で主張されるようになったのが「改良進歩」である。一八八一(明治一四)年に農商務省が設置され、大日本農会が設立されると、会則で「改良進歩」を掲げるようになった。「改良進歩」は、それまでの欧米農法・農学による大農経営の拡大方針を大きく転換し、地域で農業「改良」を指導してきた「老農」を結集して、農業「改良」と地域の「進歩」をはかろうとするものであり、当時の自由民権運動を防ぐ意図も含まれていた。小平では、斉藤忠輔をリーダーとして新たに茶業を振興し、茶業組合の組織によって「改良進歩」を進める方向や、蚕種を振興して「改良進歩」をはかる道が追求された。

図8-14 小平蚕種の見本箱(銘柄「改良又昔」)
小平市所蔵

 小平での「改良」はどのような歴史的性格をもっていたのか。神奈川県が茶業組合に訓令をだしたとき、小平の実業家の多くは「改良」を後押しする「保護」と受けとめている。他方で、小平にも鉄道誘致(川越鉄道)による地域開発の波が訪れてきた。その際におきた鈴木新田の所有地買収をめぐる対立のなかに、本書の第一章では、新たな作物である百合栽培への挑戦による「改良進歩」の努力と、鉄道開設による地域「開発」への期待の衝突を読み取っている。明治以降の多摩地域では、東京とのかかわりで、地域の外から鉄道や舟運などを誘致して地域を「開発」する機運が出てきた。そのとき小平では、明治政府の方針をある程度受け入れつつ、在来産業の「改良」に地域で取り組み、地域の「進歩」をはかる方向が追求されていたのである。
 この「改良進歩」は政府の方針や自由民権運動とかかわり、政府や県による地域編成とも関連したので、明治前期の小平では、経済と政治をめぐる対立・再編がめまぐるしくくりかえされた。この複雑な過程には、政府の方針による翻弄(ほんろう)や政党間の対立だけでなく、在来産業の「改良」をはかろうとする地域の努力があったことを見逃してはならない。