学園「開発」と戦時「開発」

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一九二三(大正一二)年の関東大震災とその後の復興は東京を大きく変貌させた。都市化の波は周辺地域の郊外化を招き、東京市と隣接五郡は「大東京」と呼ばれるようになる。これ以降、戦後にかけての小平には地域「開発」の波が押し寄せるようになる。明治期の「改良」に代わり、外部からの「開発」に地域の将来を託す選択肢があらわれてきたのである。
 大東京による郊外開発の流れのなかで、一九二〇年代の小平では、箱根土地株式会社による「小平学園」開発がおこなわれた。女子英学塾や東京商科大学予科が移転し、多摩湖鉄道が開通した。海外拓殖学校や結核療養所、小金井カントリー倶楽部、さまざまな研究施設など、郊外型の施設の進出が相次ぎ、小平村は畑地のなかに学校や研究施設が並ぶ郊外地域へと変貌した。
 一九三一(昭和六)年の満州事変以降の軍備拡張のなかで、東京は「軍都」の傾向を強め、大都市の過密と防空のために、軍事施設や都市施設の郊外移転が相次いだ。北多摩郡では立川が「空都立川」として急成長をとげ、この流れは一九四〇年ころから小平にもおよび、陸軍施設や軍需工場、動員関連施設、医療関係施設などの、総力戦の遂行に関連する施設の建設と移転がつづいた。小平には住宅営団による住宅も建設され、人口の急増もみられたが、増加人口の少なからぬ部分は、総力戦関連施設への勤務にともなう滞在型の人口だった。この点で戦後の郊外開発による人口流入の多くが定着型の人口だったのとは対照的である。
 一九三〇年代から戦時期の小平では、大東京の近郊という地理的条件をいかした、すいかやさつまいもなどの農業「改良」が続けられ、この動きは戦後一〇年間くらい継続した。戦時・戦後の生活「改良」の動きとあわせ、明治期の「改良」は明治期で途絶えたのではなく、その後は農業や生活で続けられていた。