明治に入ると、くらしの仕組みに二つの点で大きな変化があった。一つは、近世以来の寺子屋や医療に対して、新しい小学校と近代医療が地域に導入されたことである。両者はともに長い時間をかけて教育と医療のあり方を変えていくことになる。もう一つは小平村の誕生である。明治以降の地方制度の変革により、小平村が成立した。小平村は兵事や徴税、教育などの国家委任事務を遂行し、明治国家にとっての行政を担った。
その後の小平村におけるくらしを支える仕組みについては、第三章第三節で言及している。そこでは、一九二〇年代から三〇年代半ばの小平村において、明治以降に受容した制度や組織がくらしを支える側面と、家や村(地域)がくらしを支える側面の両者について叙述している。
新田開発で成立した小平では、村で共有する山林や草刈場をもたなかったために、地域集団としてのまとまりはおのずと緩やかだった。村を支える道路や橋梁の維持管理、水路の安全のための共同作業や祭礼などは近隣の地縁者で担われており、冠婚葬祭などの生活扶助も近隣者で担われることが多かった。このように、古くから村が成立した地域や、山林や草刈場などの共有地をもつ村とくらべた場合、小平での家や村のかかわりは緩やかだったところに大きな特徴があった。
これに対して第三章の時期の小平村では、尋常小学校や消防組、青年団など、明治以降に地域に導入されたり、近世以来の組織が再編されたりしたものを積極的に受容し、それらの組織が媒介になって地域の新たな社会関係が形成されているようすが確認できる。畑作地帯で強風の吹く小平では、くらしを維持するうえで消防がとりわけ重要であり、消防組は地域の大事な組織として定着していた。小学校は地域に根づいて地域で運営する機運があり、青年団は小平村の現状と歴史について調査し、「小平村村勢一覧」と「小平村郷土史概要」をまとめている。新田村として出発した小平村では、家や村のかかわりが緩やかだったので、明治以降の制度や組織を受け入れる過程で形成される社会関係がとくに重要な意味をもっていた。戦前の小平村では、一九二〇年代から三〇年代半ばの時期に、明治以降に導入・再編された組織や制度を受け入れながら、くらしを支える仕組みが形成されていったのである。