戦争の時代に入ると、くらしは統制されるとともに、衣食の配給などによって平準化される傾向をみせた。アジア・太平洋戦争の末期には、小平で国民健康保険が導入されている。青年学校が設置されて戦争を支える青年に期待が集まり、銃後を守る婦人会活動が活発におこなわれたり、津田塾の女子学生が学徒勤労動員に出たりするなど、女性も活躍が求められた。くらしの仕組みが大きく変わってきたのである。
小平の戦時期のくらしの仕組みに影響をあたえたものとして、もう一つ、戦時開発の進行があった。総力戦に関連した施設が移転・建設され、人口も増加した。ただし、この時期の人口増加は戦争関連施設に勤務する滞在型の人口が多く、この点で小平への影響は限定的だった。
敗戦後の小平ではくらしの再建がはかられる。戦後もくらしの統制が続くものの、政府による配給は予定どおりに進まず、政府はくらしを支える役割を十分にはたすことができない。こうしたなか、小平では、三つの面でくらしを支える試みをみることができる。一つ目は、いつの時代にもまして人びとのつながりがくらしを支える大事な役割を果たしたことである。建設飯場での朝鮮人による日本人へのどぶろく支給や、病院での患者同盟の結成などは、敗戦後にくらしが厳しくなったもとでの人びとのつながりの例である。二つ目は、戦時期に移転・建設された総力戦の関連施設が戦後になり転用されたことであり、そのなかでは、小川に身体障害者の更生施設や身体障害児の養護学校、病院などが集められたように、福祉と医療、教育を組み合せた取り組みがはじめられるところもあった。三つ目は、一九五〇年代から始まる農林省による農業改良、生活改良の取り組みであり、公民館ではじまる社会教育の講座である。いずれも農林省と文部省の政策が地域にまで降りてきたものであるが、くらしの再建や小平の特性をいかした産業づくり、戦後の新時代の地域の担い手育成を支える面があった。