戦後の小平のくらしとくらしを支える仕組みを大きく変えたのは、郊外化による人口増大であり、小平が郊外の住宅都市に変貌する過程であった。
単身者と若い夫婦が多数流入したことにともない、一九六〇年代には、小学校やPTA、保育園、幼稚園、学童クラブなどをつうじて、子育てを支える仕組みづくりが目指された。保護者や教員、保母が加わり、小平市は小中学校や保育園の設置を進めた。小平に新たに流入してきた若い人や主婦を受けとめたのが公民館やPTA、地域や団地の自治組織だった。
子育ての仕組みづくりに加えて、一九六〇年代末から七〇年代になると、福祉の運動が大きく進展した。一九六九(昭和四四)年に小平の精神科医、看護婦、保健婦、ケースワーカーらが中心になり、地域精神衛生業務連絡会が設置された。戦時期から戦後にかけて小平には精神病院や精神科が多く集まっており、この連絡会を契機にして、精神病の人たちの医療を施設から地域にひらき、地域全体でケアする試みがはじまった。次いで一九七三年には、「障害者の権利を守り生活の向上をめざす小平の会」がつくられた。小平養護学校の教職員や地域の障害者、障害者の家族、保健所職員やケースワーカー、障害児学級・養護学校の教員・保護者などが担い手であり、共同作業所であるあさけや作業所の設立に結びついた。
一九七〇年代以降の小平では、地域にくらすさまざまな人たちがともにくらすまちづくりを目指している。福祉を含めてくらしを支える仕組みを整備することである。一九七〇年代から八〇年代の小平が福祉の時代をむかえるうえで、福祉の運動が果した役割が大きかった。一九九〇年代から二〇〇〇年代になると、小平市の福祉の行政が本格的に進められるようになり、現在に至っている。
明治維新から一世紀半におよぶ小平のくらしを支える仕組みをたどってきた。そのなかで、小平のくらしを支える仕組みにとっては、戦前の一九二〇年代から三〇年代前半と、戦後の一九六〇年代から七〇年代以降の二つの時期が重要な画期としてあることがわかった。明治以降に導入・再編された制度や組織を受け入れる過程で社会関係が形成され、そこを核にしてくらしを支える仕組みを整えていった一九二〇年代から三〇年代前半、それに対して戦後の一九六〇年代から七〇年代以降になると、急速に進む郊外化のなかで、新しく移り住んで来た人を含めた市民が学校教育や社会教育、地域の自治組織に取り組み、一九七〇年代に入ると、福祉や医療を核にして教育や文化の連携したまちづくりが進められた。戦後の一九六〇年代から七〇年代以降になると、それまで交わることが少なかった市民同士や市民と小平市の垣根を乗り越えて、連携や共同がはかられるようになった。戦前と戦後の二つの時期の推移のなかに、現在の小平市のくらしを支える仕組みの歴史的な前提が示されている。温故知新として歴史に学ぶのであれば、二つの時期の歴史的な前提をふまえ、今後の市民参加と地方自治の方向性を明確にすることが求められる。