図8-19 小平第二小学校50周年記念誌(右)と80周年記念誌(左)
二〇〇八(平成二〇)年度、小平第二小学校(以後、二小)は開校八〇周年を迎え、学校の歴史をたどる記念誌をPTAで作成した。編集にあたって受け継ぎたいものがあった。二小の五〇周年記念誌『文〓』(ぶんよ)(一九七八年刊)である。私自身、六年生在校時に手渡されたものである。改めてページをめくる五〇周年記念誌『文〓』からは、歴史と向き合う真摯な姿勢がうかがえた。
真摯な姿勢と評価するのは、以下三つの視点をもっているからである。一つ目は手持ちの史料を読みこみ、現在何がわかっていて、何がわかっていないのか確認していること。二つ目は歴史の空白の部分を埋める努力がなされていること。三つ目は、やがて歴史の一部になる「今」を記録していること。この視点をもとに作業を進めることで、歴史から「今」の立ち位置を知り、学校の未来の輪郭や大切にしていくべきものがみえてくる。
五〇周年記念誌『文〓』では、時代を区切り、座談会が三回にわたって開かれている。一回目(尋常小学校時代)と二回目(国民学校時代―昭和二〇年代)は卒業生、三回目(校舎増改築時代)は旧職員を招き、司会の教諭が尋ねたい項目を順序よく聞きだしている。資料整理が周到になされ、記録に残しておくべきことの共通認識がなければできない企画である。どんなことで当時の子どもや大人が一喜一憂したのか、沿革からだけではわからない具体的な記録は、現在でも参考になる点が多い。また記念展・運動会・学芸会の記録からは、子どもたちに学校の歴史を意識させ、正しく伝えようと労を惜しまず準備されたあとがうかがえる。表紙の風船とばしの笑顔の写真からも十分伝わるように、周年行事の一つひとつに学校・地域・保護者が一致団結して取り組んだことがわかる。
ところでこの五〇周年の周年行事は、四〇周年のそれを手本としたと記されている。四〇周年記念誌(一九六八年刊)の大島祐市校長の「歴史と伝統をふまえて」という挨拶には先人への感謝と、未来を担う子どもたちに歴史を伝え継いでいくという気概があふれている。この気概は次の中川瑞穂校長に引き継がれた。中川校長は歴史と向き合い、未来を考える大切さを五〇周年式典の式辞のなかで「水を飲む時は、井戸を掘った人のことを忘れてはならない。私たちは、これらの方々の掘った井戸の水に感謝しながら、二一世紀の新しい井戸をみんなの手で探し求め掘っていきたい」と表現して、子どもたちに伝えている。五〇周年記念誌『文〓』にもその方針は貫かれている。
かつてこの五〇周年記念誌『文〓』を受け取った私たちの世代が、今度は自分の子どもたちに手渡すための学校記念誌を作成した。伝え継がれてきた二小の歴史を、さらに子どもたちに伝え継いでいきたいという思いから、私たちも八〇周年記念誌を〝文〓〟と名づけた。
学校を語るとき「校風と伝統」という言葉をよく耳にする。私学には「建学の精神」があり、おのずと引き継がれていく。では公立の、特に小学校の校風と伝統は何を以って引き継がれていくのか。校舎そのものや周りの自然、あるいは卒業したあとも身をおく地域の文化や人とのつながりもあろう。それらとともに重要なものが校風と伝統を伝え継いでいこうという大人たちの意思である。教員や児童が全て入れ替わったとしても、目に見えない力で子どもたちを支えて、行動の規範となるものが校風と伝統である。校風と伝統は子どもたちに繰り返し語り、その歴史を大人たちが意識的に伝え継いでいくことで守られる。その一助となるのが学校記念誌である。
八〇周年記念誌『文〓』では、それまで不明な点が多かった明治期の創立から現在地に開校するまでの歴史と、戦後の急激な人口流入による度重なる校舎増築の変遷をまとめた。また、戦前から現在に至るまでの卒業生のアンケートや聞き取り調査、五〇周年記念誌『文〓』の記録と連動する児童へのアンケート調査をおこなった。多くの方々の協力を得て、学校をめぐる世代を越えた「人のつながり」も改めて認識した。子どもたちの笑顔を思いおこさせるのか、小学校のことを語る人の表情には自然と笑顔が宿っていた。
学校記念誌をつくるということはリレーのようなものである。学校に縁のある人たちの笑顔をつなぎ、先人から私たち、私たちから子どもたちへと学校の歴史をつなぐ。二小の校歌には「昔の跡を伝え継ぎ 息吹新たな小平の希望の明日を拓くもの」という歌詞がある。今までの記念誌から引き継いだバトンをしっかり握って、子どもたちには希望の明日を拓いていってほしい。