元号年 | 年 | 月日 | 事項文 |
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寛永4年 | 1627 | 6月21日 | 亀ケ崎城で白昼出火し、城内が全焼する。原因は城代阿部孫太夫の家臣が火縄で煙草に火をつけ仮睡中、鳶がその火縄をくわえ屋上に飛んでいったことに由る。そのため阿部その他が罰せられる。(荘内歴史年表) |
明暦2年 | 1656 | 5月2日 | 突抜から出火して704戸を焼く、世に清治郎火事といわれる。この大火は、突抜(後の内町)より猟師町(後の出町)土塚山に至り、704軒を灰燼とし、全町1,277軒のうち過半を失った。この焼失場所は、当町殷盛の商家全部で、この機を逸せず、都市計画を決行したのは、時の町奉行乙坂六左衛門である。あるいは池田四郎左衛門が検地奉行となり、当町の町割をしたという。六左衛門は正保2年より寛文3年に至る19ヵ年間、町奉行として、当町に在職する。この割方を見ると東西に貫通する数条の大道を設け、南北に多くの小路を設けている。これは当町が海岸に位置しているので、常に東西の強風を受けやすく、火災の区域が南北に延焼するのを防ぐためにほかならない。六左衛門は山王堂町より秋田町に貫通する火防線を設けた。中三間を空地とし、これに松を植える。俗に松原地と稱した。この火防線は今の本町通りと、中町通りの中間を貫通するもの。維新以後ほとんど町民の占據する所となり、その面影をなくする。わずかに本町六丁目裏の小路や鐙屋裏の松等がそれを伝えている。 |
宝永4年 | 1707 | 3月11日 | 肴町から出火して220余戸を焼く。 |
| | 12月8日 | 猟師町(船場町)から出火し、北西風のもと本町・肴町・片町など718軒を焼失する。 |
宝永5年 | 1708 | 7月 | 本町三丁目より出火し、6軒を焼失する。この時鐙屋も類焼する。 |
正徳元年 | 1711 | 9月26日 | 夜九つ時(12時)、荒瀬町から出火して南東風のもと、浜町・十王堂町など百軒余を焼く。善導寺・正徳寺も焼ける。(編年私記) |
享保2年 | 1717 | 4月13日 | 浜中村大火、120軒焼失、巡見使宿も焼失する。(県史史料篇六) |
享保3年 | 1718 | 5月8日 | 片町から出火して277戸を焼く。(荘内経済年表) |
| | 10月22日 | 鷹町から出火して41戸を焼く。(酒田町史年表稿) |
享保4年 | 1719 | 3月1日 | 近江町から出火して荒瀬町・浜町など70戸を焼く。 |
享保5年 | 1720 | 5月1日 | 山椒小路から出火し、南東風のもと、中袋小路・御宿小路・下袋小路・利右衛門小路・染屋小路など228軒を焼失する。 |
享保7年 | 1722 | 6月10日 | 浜町から出火して善導寺小路まで50戸を焼く。 |
享保8年 | 1723 | | 鷹町から出火して60戸を焼く。 |
享保11年 | 1726 | 4月12日 | 十王堂町から出火して20余戸を焼く。愛宕堂と上の山の薬師堂も焼ける。 |
| | 5月8日 | 夜、南東風のもと片町から出火して日和山下まで2077戸を焼く、下の山王社も類焼(享保20年再建)する。権九郎火事という。この火災後、片町は庄内藩の米蔵である上蔵に隣接していて火災の危険があるため、同町の東側27戸、向う南角4戸を筑後町はずれの田地を整理して移住させ新片町と称する。 |
享保12年 | 1727 | 4月12日 | 落雷によって上の山から出火して700戸を焼く。不玉宅も類焼する。この火事で鐙屋はすべてを焼失し、翌日、町奉行に行くのに親族から裃などの衣服を借りたという。 |
| | 8月7日 | 海晏寺から出火して正徳寺など200戸を焼く。(酒田港誌) |
享保14年 | 1729 | 2月14日 | 放火のため猟師町から出火して700戸を焼く。火付女は処刑される。(酒田港誌) |
| | 9月9日 | 高野浜陣屋(御米置場)が焼ける。(酒田港誌) |
| | 9月15日 | 和泉小路(現荘内銀行酒田中央支店通り)から出火して806戸を焼く。(酒田港誌) |
享保16年 | 1731 | 9月16日 | あられ小路(和泉小路)から出火して700戸を焼く。中町・匠町・今町・出町・伝馬町(半分)。(梶原久三郎書留) |
享保17年 | 1732 | 6月1日 | 和泉小路から出火して16戸を焼く。破壊家屋3戸。 |
享保19年 | 1734 | 2月 | 利右衛門小路より出火し、100軒焼ける。(余目町史資料一) |
| | 12月13日 | 下袋小路から出火して133戸を焼く。(酒田港誌) |
元文2年 | 1737 | 5月13日 | 稲荷小路から出火して17戸を焼く。13戸破壊。 |
元文3年 | 1738 | 3月27日 | 六軒小路から出火して28戸を焼く。10戸破壊。 |
元文5年 | 1740 | 2月14日 | 稲荷小路から出火し、12軒が罹災する。うち7軒は破壊消防による。 |
| | 4月4日 | 寺町から出火し、37軒を焼失する。 |
| | 4月17日 | 稲荷小路から出火し、19軒を焼失する。 |
寛保元年 | 1741 | 3月18日 | 上台町から出火し、13軒を焼失する。うち5軒は破壊消防による。 |
寛保3年 | 1743 | 6月4日 | 今町から出火して16戸が焼ける。 |
延享元年 | 1744 | 9月3日 | 林昌寺から出火して寺町・上内匠町など百余戸を焼く。 |
宝暦元年 | 1751 | 3月29日 | 荒瀬町から出火して南東北風のもと大火となる。延焼2400余戸。米の損害102,667俵、焼死者80名、御米置場・下の山王社も類焼する。藩では1日に米20俵の粥を罹災者に数日にわたって給する。豊後火事または宝暦の火事という。(酒井家世紀) |
宝暦3年 | 1753 | 9月3日 | 利右衛門小路から出火し、染屋小路まで30軒を焼失する。 |
宝暦4年 | 1754 | 2月17日 | 出町から出火して204戸を焼失する。(酒田港誌) |
| | 9月13日 | 観音小路から出火して389戸を焼く。つぶし屋21戸。(酒田港誌) |
宝暦8年 | 1758 | 7月13日 | 伝馬町から出火して北西風のもと肴町に及ぶ1,479戸を焼失する。下山王社も焼ける。 |
宝暦12年 | 1762 | 4月11日 | 上の山から出火して400戸を焼失する。 |
| | 9月13日 | 地震による家屋倒壊のため、観音小路から出火し、伝馬町・南蔵院小路・下中町等413軒を焼失する。観音堂も焼ける。(野附文書) |
明和4年 | 1767 | 4月 | 八軒町川端から出火、焼失24軒、取壊等12軒を出す。(野附文書) |
| | 5月17日 | 山王堂町から出火して280戸を焼く。 |
明和5年 | 1768 | | 筑後町善五郎より出火、類焼9戸・取壊や切潰5戸を出す。(野附文書) |
明和6年 | 1769 | 1月28日 | 檜物町から出火して360戸を焼く。潰家28戸を出す。(荘内歴史年表) |
明和8年 | 1771 | 2月25日 | 給人町から出火して北西風のもと256戸を焼く。無棚船21艘も焼失する。(荘内歴史年表) |
安永元年 | 1772 | 4月15日 | 片町から出火して南東風のもと2182戸を焼く。(酒田町史年表稿) |
安永2年 | 1773 | 3月29日 | 大信寺の大工小屋から出火して寺町(本慶寺・牢屋)・今町・台町など210戸を焼く。下の山王社も延焼する。(酒田港誌) |
安永6年 | 1777 | 4月 | 本町一ノ丁本間庄五郎宅から出火、類焼10軒、切家4軒を出す。(市史史料篇一) |
安永8年 | 1779 | 9月6日 | 本町一ノ丁から出火して86戸を焼く。 |
天明元年 | 1781 | 10月 | 飛島の浦で18戸を焼く。 |
天明3年 | 1783 | 4月17日 | 下袋小路から出火して南東風のもとに船場町まで225戸を焼く。 |
天明5年 | 1785 | 4月17日 | 下袋小路吉右衛門より出火、船場町まで206戸を焼く。潰家17戸。(荘内歴史年表) |
| | 10月6日 | 泉流寺が炎上する。 |
天明6年 | 1786 | 4月12日 | 淡路小路(片町の一部)から出火して126戸を焼く。 |
天明7年 | 1787 | 3月 | 酒田湊で松前佐次兵衛船から出火、隣の加州本吉船も類焼する。(市史史料篇八) |
天明8年 | 1788 | 9月6日 | 本町一丁目から出火して186戸を焼く。(酒田港誌) |
寛政元年 | 1789 | 1月9日 | 猟師町から出火、御米置場や漆山番所を焼失する。 |
寛政5年 | 1793 | 1月18日 | 伝馬町から出火して113戸を焼く。大火後三十六人衆から4人を交互に選出し、町奉行付として火防につき奉行をたすけ指揮に当たることとする。(酒田町史年表稿) |
| | 10月1日 | 染屋小路から出火して945戸を焼く。 |
寛政6年 | 1794 | 4月12日 | 上寺町八百屋三太郎より出火、類焼16軒、潰し家5軒を出す。(市史史料篇一) |
寛政10年 | 1798 | 2月28日 | 六軒小路から出火し、西風のもとに秋田町・伝馬町・荒町・今町・中町・内匠町・寺町・大信寺・安祥寺・浄福寺・浄徳寺など640軒を焼失する。 |
| | 3月10日 | 本町七ノ丁から出火し、京風のもとに船場町・秋田町・出町など180軒を焼失する。 |
| | 4月晦日 | 新米屋町から出火して590戸を焼く。(酒井世紀) |
| | 10月1日 | 染屋小路から出火し、南西風のもとに本町・上中町・大工町・桶屋町・鍛冶町・肴町・捨物町・十王堂町・下内町・浜町・近江町・天正寺町・筑後町・新片町など671軒を焼失する。そのほか土蔵36棟・小屋42棟を焼く。 |
享和3年 | 1803 | 9月 | 飛島勝浦村で39戸を焼失する。 |
文化元年 | 1804 | 4月2日 | 内匠町から出火し、南西風のもと下内匠町・荒町・山王下・今町・観音通りなど450軒を焼失する。 |
| | 4月6日 | 米屋町組新町から出火し、片町・八軒町など300軒を焼失する。 |
文化2年 | 1805 | 10月6日 | 片町から出火し、28軒を焼失する。 |
文化3年 | 1806 | 8月21日 | 中袋小路から出火し、360軒を焼失する。 |
文化10年 | 1813 | 3月25日 | 新片町より出火し95戸を焼く。 |
| | 4月14日 | 筑後町より出火、363戸を焼く。本間光道は罹災者に米200俵を施与する。 |
文化14年 | 1817 | 1月3日 | 伝馬町から出火し、23軒を焼失する。 |
文政5年 | 1822 | 2月11日 | 夜、染屋小路から出火して南西風のもと本町四ノ丁・三ノ丁・和泉小路・上の山・荒瀬町・近江町・新片町など904戸を焼く。町年寄上林家の「上林文庫」や、日記その他も焼ける。(荘内経済年表) |
| | 8月 | 飛島法木村で50戸中49戸を焼失する。 |
| | 12月 | 出町から出火し、1,240軒を焼失する。社寺の焼失が多い。この年10月にも大火あり、一年間で2,144軒を焼失したとあるが、詳細は不明である。このとき上山王社も類焼し、まもなく本殿のみ建立し、拝殿はたてられず、假殿をもってこれにあてる。 |
文政6年 | 1823 | 4月7日 | 安祥寺が焼ける。 |
文政9年 | 1826 | | 飛島の法木村で45戸を焼く。 |
文政11年 | 1828 | 7月1日 | 今町から出火して183戸を焼く。 |
天保5年 | 1834 | 5月 | 下台町から出火して180戸を焼く。(酒田港誌) |
弘化元年 | 1844 | | 飛島勝浦村で35戸を焼失する。 |
弘化2年 | 1845 | 4月20日 | 正后、淡路小路から出火して920戸を焼く。この火事で旅商人の商品200万両を焼いたと「今町菊地家覚書」に記されており、いかに多くの品物が移入されていたかがわかる。アマ鯛火事という。アマ鯛というあだ名の家の主人は気不足で、火遊びを好み、このため出火し、折からの東南風にあおられて、片町・上下内町・給人町・新町・上袋小路・稲荷小路・本町・山椒小路・御宿小路・利右衛門小路・染屋小路・秋田町・船場町・猟師町・台町を焼く。920戸のほか、土蔵191棟、米6,440俵、穀類700俵、十全堂・静照寺・運昌坊・鳳泉坊・御料・山形・新庄役所も燃える。本間家は七社の宮と長屋門は焼けたが本宅は焼けない。これ以後、明治27年の大震火災を除けば、昭和51年まで、これほどの大火はなかった。 |
| | 7月7日 | 山王堂町から出火して204戸を焼く。 |
弘化3年 | 1846 | 7月3日 | 山王小路から出火し、東風のもとに給人町・米屋町・下内町・鍛冶町など407軒を焼失する。 |
嘉永2年 | 1849 | 5月 | 山王祭の日に出火、新片町勘右衛門等22、3軒を焼失する。(市史史料篇七) |
嘉永3年 | 1850 | 1月 | 丁離兵右衛門が失火し、15軒類焼する。翌日、足軽目付二人、同心二人からとり調べられる。(町民は徒目付の吟味) |
| | 5月3日 | 寺町から出火し、17軒を焼失する。 |
嘉永6年 | 1853 | 2月2日 | 酒田火事、52軒焼失する。(編年史記) |
安政3年 | 1856 | 7月17日 | 飛火による火災で妙法寺のほか、台町4軒、高野浜20軒などを焼失する。 |
慶応元年 | 1865 | | 宮野浦で40軒が焼失する。(荘内史年表) |
慶応3年 | 1867 | 4月 | 宮海村で大火、神社も焼失する。(西荒瀬の鮭) |
明治5年 | 1872 | 5月 | 台町から出火し123戸を焼く。 |
明治6年 | 1873 | 5月15日 | 肝煎小路から出火して両台町の123戸を焼く。 |
明治11年 | 1878 | | 浜中村大火、正常院も焼失する。(浜中広岡地区の年表) |
明治13年 | 1880 | 7月24日 | 内匠町で8戸焼失。 |
明治14年 | 1881 | 11月1日 | 午後8時50分天満宮より出火、雷小路・十王堂町・桧物町・名古屋小路・米屋町まで100戸斗りを焼く。(咄しの種瓢) |
明治16年 | 1883 | 2月 | 新堀村で住屋47・非住屋49を焼失する。(県警史年表) |
| | 3月5日 | 午前0時3分、上小路から出火して秋田町・本町五・六・七丁目を焼き、午前6時30分染屋小路で鎮火し、96戸を焼く。この時、琢成学校・十全堂も類焼する。また銀貨や蔵米1万俵余を焼く。三條実美が「琢成学校」と書した大額を取り出そうとして、白崎良彌が単身3階にかけのぼり、これを取りはずしたが、階段を降りることができず、ついに灰燼に帰す。良弥は窓を破り二階より飛びおりて負傷する。(酒田港誌) |
| | 10月31日 | 午後11時、利右衛門小路から出火して船場町の下蔵まで焼き、翌日午前5時に鎮火する。 |
明治20年 | 1887 | 12月13日 | 琢成尋常高等小学校が放火のため再び焼ける。このとき十全堂も焼ける。 |
明治21年 | 1888 | 9月 | 新堀村で大火、63戸を焼失する。(山形県警察史) |
明治22年 | 1889 | | 円能寺村で大火、本徳寺も焼失する。 |
明治24年 | 1891 | | 飛島法木で30戸を焼く。 |
明治33年 | 1900 | 6月 | 浜中が大火となり96戸を焼く。 |
明治39年 | 1906 | | 給人町より出火し、8軒を焼失する。 |
明治44年 | 1911 | 1月7日 | 山椒小路より出火、稲荷小路・上袋小路・肴町まで焼く。焼死者2名を出す。 |
| | 12月12日 | 新町遊郭内の花岡小路の住宅で提灯から出火し、写真館の華影軒を含む4棟全焼、1棟が半焼したほか、消火活動中に屋根から転落した消防夫1名が殉職、2名が負傷する。 |
大正4年 | 1915 | 3月 | 浜町で2戸を焼く火事が発生し、焼死者2名を出す。 |
大正5年 | 1916 | 5月8日 | 午後10時半、鵜渡川原の最上町から出火し、民家43戸、寺一力寺、小屋11棟、焼死3名の大火事となる。 |
大正8年 | 1919 | 4月 | 米屋町で6戸を焼失する。 |
| | 5月 | 飛島の浦で15戸を焼失する。 |
大正9年 | 1920 | 8月 | 生石で13戸を焼失する。(県警史年表) |
大正13年 | 1924 | 4月 | 落野目で火事があり、8戸を焼失する。(県警史年表) |
昭和2年 | 1927 | 10月 | 関村で火事、23戸を焼失する。(県警史年表) |
昭和6年 | 1931 | 3月 | 広野村仏照寺より出火し、住居5棟が焼失する。焼死1名。 |
昭和7年 | 1932 | 12月 | 大工町から出火し、10戸を焼失する。 |
昭和11年 | 1936 | 10月4日 | 北千日堂前から出火し、18軒を焼失する。 |
昭和12年 | 1937 | 5月5日 | 伝馬町の稲舟酒造から出火して香梅咲や酒田ホテルを類焼する。この火事は点々と飛火したもので5棟を全焼、3棟が半焼した。(酒田市制50年) |
昭和16年 | 1941 | 5月9日 | 日向村升田の全122世帯のうち83世帯、250棟が焼失、死亡1名、負傷者6名を出す大火となる。 |
昭和20年 | 1945 | 1月26日 | 山居にある山形造船の3棟が焼失する。 |
| | 6月2日 | 機関車の飛火で、高田新田の三上神社と住宅4戸焼失し、同じく6日住宅4戸を焼失する。 |
昭和22年 | 1947 | 7月28日 | 大浜で三島パルプ4棟を焼失する。 |
昭和25年 | 1950 | 11月 | 高田新田で11戸を焼失し、全地区が移転する。 |
昭和28年 | 1953 | 2月1日 | 夜、上内町で13棟を焼く火事が発生する。(酒田市制50年) |
昭和40年 | 1965 | 3月28日 | 船場町の酒田製氷の三棟を焼失する。 |
昭和47年 | 1972 | 1月5日 | 中町二丁目丸本商店から出火し、店舗と住宅各1棟を全焼し、さらに店舗2棟、住宅5棟を類焼し、焼死者2名を出す惨事にいたった。(酒田市制50年) |
昭和51年 | 1976 | 10月29日 | 午後5時40分頃、中町二丁目の映画館「グリーンハウス」から出火し、折からの瞬間最大風速35メートルという強風にあおられて、あれよ、あれよという間に、中央商店街を中心に新井田町まで焼けた。焼失面積22.5ヘクタール。西から東へ短冊型に、翌日早朝まで延々と11時間にわたって燃え続け、市民を恐怖のまっただ中に叩きこんだ。各地から消防車が救援にかけつける。二番町、新井田町辺では破壊消防を行う。新井田川東岸に一斉に消防車を配列し、水幕を張って必死にくいとめる。本間家本邸は焼けなかった。(本邸建設者本間光丘は、北西風に対し、タブを植え、空地や土屛をもって防火を考えていたことがわかり、研究者達を驚かした。)旧山王堂町では赤い腰巻を旗竿につけて立てたという。風雨波浪注意報発表。り災世帯1,023・り災者3,300人・罹災児童生徒378名に達する。上林消防長が殉職する。(損害405億円)。 明治27年の庄内大震火災以来最大の災害となる。まもなく自衛隊がきて焼跡整理に当たる。また、全国から救援金や物品が寄せられる。我が国における戦後4番目の大火となり、酒田大火とよばれる。 |