地震

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安永9年17806月18日庄内大地震。酒田はもっとも被害が多い。潰れ家や死傷者が多数出る。
文化元年18046月4日夜10時ごろ、鳥海山を挟んだ庄内北部と秋田県南部にわたる日本海沿岸で大地震が発生する。震源に近い遊佐郷の被害が特に甚大で、死亡者109人にのぼる。地震による液状湧出水が多数認められる。「庄内大地震の変」によると、遊佐郷・荒瀬郷の倒壊家屋の有様は「編笠のふせたる如く、人馬死すること数を知らず」と記されている。酒田の被害は亀ヶ崎城大破、大手橋二つに折れる。城代宅・家中屋敷・町奉行所・足軽屋敷を始め、酒田市中の町家・寺院など全半壊家屋1千軒を超す。焼失家屋23軒、死亡者16人、うち2人は焼死による。
天保4年183310月26日午後4時ごろ大地震発生。全半壊家屋480軒余り出る。特に米屋町組に被害が集中する。津波が発生し、川船や漁船27艘が破壊または流失する。
安政元年18547月5日午後8時頃地震が起こる。
安政2年185510月2日夜、江戸大地震、庄内藩邸にも被害がある。(荘内歴史年表)
文久元年18619月18日宮城県を中心とする地震。
明治4年187110月11日午前8時頃大地震、午後10時頃また地震となる。
明治27年189410月22日午後5時37分、最上川河口付近を中心として庄内が大地震に襲われる。庄内三郡の被害甚しく、中でも酒田は最も惨状を極める。酒田の全焼家屋1,747戸、(十全堂も焼ける)倒壊家屋1,558戸、死者162人(うち船場町70人)傷者223人に及ぶ。特に船場町はひどかった。何人かが本町七丁目北角で大瓮にもぐりこみ、蒸し焼きになった話が伝えられている。新井田蔵も焼け落ちる。余震は23日午前8時半まで140回を数えた。数日後、安祥寺や浄福寺の本堂が倒れたときも大きな音がしてびっくりしたという。三河の尼さんこと、徳雲寺住職颯田本真尼も慰問品を持って弟子とともに訪れる。浄福寺に舎利塔がある。瑞相寺(現南高校)に同尼がたてた震災碑がある。この時有志数百名が震災救済義会を創立し、高橋直勝・清水斎記・斎藤千里・本間與吉。須田文太郎の五人を挙げ事務委員とし、義金募集・政府及び議院へ陳情の文書、その他、地震後の救済施策等一切の事務を行う。委員の手で募集した金額二万五百餘円に及ぶ。のち有志相はかり下日枝神社境内に明治33年10月「甲午震災記念碑」を建てる。文学博士西村茂樹篆額、浄福寺住職菊池秀言撰文、巌谷一六の書。(酒田港誌)
昭和39年19646月16日午後1時1分55秒。M7.7、震度5の新潟地震がおきる。死者1名(第三中学校女生徒)。重傷5名、軽傷9名、倒壊家屋125戸、被害総額9億9,778万9千円。(酒田市議会史年表)