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元号年月日事項文
元和8年1622この年、大坂商人大和屋某が当湊より米1800俵を積出し、暴風にあい濡米600俵を出す。(酒田港誌)
元禄元年168810月人夫3千人をもって浜蔵をたてる。「此頃酒田は北方の良湊として海内に鳴響き、船舶の出入するもの頓に増加し、問屋の数四、五十軒の多きに達し、亀ヶ崎城の下より湊口に至る迄、帆檣林の如く、その殷盛なること比類なしと称せられる。当時の問屋は何れも盛大なりしが、中でも鐙屋惣左衛門を以て巨擘とする。」(酒田港誌)
延享元年1744御米置場普請を川北三組に命じられる。(酒田港誌)
宝暦4年17544月町奉行の城米出船見張小屋を大浜にたてる。(酒田港誌)
文化14年18179月光道が船場町から出町神明(現皇太神社)前に達する石段、通称神明坂を敷設し、市街と港湾との交通を便利にし、また丁持達の荷物運搬の便をはかる。
文政10年18275月国役普請で最上川の隼瀬を掘り割る。(酒田港誌)
安政5年18584月21日箱館奉行支配組頭河津三郎太が酒田湊の形勢と、輸出入貨物を調べる。(酒田港誌)
慶応元年1865幕末の港番付である「国々湊くらべ」において、酒田湊は新潟・秋田をおさえ、北陸の三国についで前頭二枚目に位置づけられている。
慶応4年18687月幕府の飛脚船奇捷丸が入港する。
明治2年18694月政府の雇船マアス号(米国船)が酒田に入港する。
明治3年18702月酒田港に水戸教船2隻、水夫12人を常置する。水戸深さ27尺位(約8メートル)。
明治4年18715月渡辺(玉屋)久右衛門が酒田港近辺難破船取扱方と新井田川尻浚渫取扱方になる。
明治5年1872中村太助が初めて鉄船に塩を積み、三田尻から酒田に入港し、最上川を上って、米沢までの塩販売に成功する。これが塩積み鉄船の始まりである。
明治6年18735月酒田港内取締規則を定める。(荘内経済年表)
明治12年1879鳥海時雨郎と五十嵐富蔵が佐々木高行に、酒田港の築港意見を上申する。
明治24年18919月酒田水路教導所が設立され、酒田港水路教導仮規則を定める。
明治26年1893酒田港湾説明資料としての「酒田港概図」が作成される。
明治27年1894水路教導所を最上川河口右岸に設置し、河口の深浅を測り、船舶出入の教導をする。電話や萬国信号使用の設備がある。(酒田港誌)
明治28年189510月酒田港航路標識事務所が設立される。(酒田港誌)
明治34年19013月29日酒田から東京へ米1万3千石を運ぶ羽後丸が酒田港沖で座礁し、海軍の巡洋艦吉野等で曳船する。
明治35年190211月酒田河口同盟会を組織して、河口改修促進のため、港湾調査を進める。明治40年酒田河口期成同盟会と改称し、同43年酒田築港期成同盟会、大正3年酒田治水同盟会、同4年酒田河口改築同盟会、同8年酒田築港同盟会と改める。(酒田港誌)
明治36年1903内務省による最上川改修工事が満期につき、山形県に移管する。北岸の石堤20間(40メートル)を補足する。(酒田港誌)
明治37年190411月酒田港防砂堤の築設を始める。長さ985間(1,793メートル)幅30間(54・6メートル)高さ15尺(4.5メートル)の予定である。
明治40年1907西廻り定期航路が開かれる。寄港地は、大阪・神戸・尾ノ道・馬関(下関)・堺・敦賀・伏木・直江津・新潟・酒田・土崎・函館・小樽間で、神戸の岡崎汽船株式会社が行い、酒田では浜商店が取扱う。(郷土誌・地)
明治42年1909羽前・羽後に商港を設置しようとして、内務省が技師を派遺し、酒田・船川・土崎等を調査する。これより3港間に猛烈な競争が始まる。
両羽汽船株式会社所有の出羽丸で、酒田・函館・エトロフ間の不定期航路を開く。4月から11月頃までは定期のように就航し、翌3月ころまでは酒田・函館間を航海する。(郷土誌・地)
明治43年191012月酒田築港期成同盟会は、委員3名を上京させて、酒田港が商港として政府の選に入るように運動をする。
酒田河口同盟会を酒田築港期成同盟会と改称する。
明治44年19115月20日最上川治水調査のため、内務省技師金森鍬次郎が来港する。
明治45年19122月内務省技師臼井清彦が来酒し、河川港湾の調査をする。
大正2年1913船舶入港数は、定期船239回、不定期船269回、帆船46回。(郷土誌・地)
大正5年191610月27日内務技手石井虎治郎が没する。61歳。明治18年8月内務省最上川治水工事を起し、同25年竣工、その間専ら工事を監す。同34年11月、本県有志相謀り、「石井君治水紀功碑」を日和山公園に建てる。東久世伯爵題額、依田百川撰文、巌谷修の書。墓は龍巌寺にある。(酒田港誌)
大正6年191712月山形県知事添田敬一郎が築港の急務を思い、大風雪を冒して来酒し、河口を調査する。最上川と酒田港の切離し策は彼の唱導によるものである。
大正7年19181月4日内務省技師野村年が最上川改修事務所主任を命ぜられる。野村年は京大理工学部卒で、酒田築港や最上川改修に近代工学の力を発揮するものとして期待された。
1月31日町会の決議で、町長中村弘より、酒田港修築の請願書を内務大臣後藤新平に提出する。(酒田港誌)
2月25日本県知事依田銈次郎が来酒し河港を視察する。警察部長白根竹介・土木課長藤宮惟一とともに、日和山より河港を望み、艀に乗り、中瀬附近より河口を視察する。(酒田港誌)
大正8年19198月酒田築港の件が県会を通る。
8月内務省が酒田築港を最上川改修工事に付帯して、10ヵ年計画で着工する。計画は野村年主任技師による。これにより下瀬(中島)に住んで開墾していた8戸と地主で牧場と牛乳店を経営していた田村善太郎等は移転する。
大正9年192010月14日築港費地元負担額が50万円に決定する。
10月18日最上川治水起工式をあげる。(酒田港誌)
大正10年19215月最上川河口改修工事の一部を変更して、酒田港修築工事を施工する。
黒森山を開さくし、赤川水を放出するに決する。また港の修築工事を2ヵ年延長し工費150万円を追加し、5月18日内務大臣当築港を認可す。最上川を宮野浦より放流し、旧河口を港とするもので、河川改修と併せ行うものとする。(酒田港誌)
大正14年19252月19日内務大臣より、山形県知事の申請による、酒田築港計画変更の件が認可される。(酒田港誌)
大正15年19262月海運業者らが酒田臨港会をつくる。本会は河口の浚渫及び埋立地の利用その他これに附随する事業を施設するを以て目的とする。会長中里重吉、副会長荒木幸吉。(酒田港誌)
5月18日より2日間、本県港湾調査会を酒田町で開く。(酒田港誌)
9月酒田臨港会で船舶入港の便を計り河口に浮標5個を設置する。
10月新潟土木出張所長新開寿之助が酒田築港工事を視察する。
昭和3年19284月1日最上川改修事務所主任内務技師坂田昌亮が新潟土木出張所工務部長に栄転する。熊本県八代町に生まれ、大正2年、東大土木工学科を卒業し、同6年8月、内務技師に任じ、最上川改修事務所主任野村年のもとに次席となる。酒田町会議員を兼ねる。また酒田商業会議所特別議員に推薦される。最上川改修、酒田築港に尽す。(酒田港誌)
4月内務技師坂上丈三郎が坂田内務技師に代って、最上川改修事務所主任兼酒田港修築事務所主任を命ぜられる。福島県二本松町に生まれ、東大土木工学科を卒業し、大正8年7月最上川改修事務所勤務を命じられる。同10年2月、内務技師に任じ、昭和3年6月、酒田商工会議所顧問に推薦され、同8年4月荘内国道改良事務所主任兼務を命じられる。最上川改修や酒田築港は、野村・坂田・坂上の三人による一致協力の賜である。(酒田港誌)
昭和4年19296月24日酒田港が第二種重要港湾に指定され、翌月25日酒田商工業組合連合会主催で、記念として最上川で花火をあげる。その後、毎年川開きとして続けられ、現在の港祭となる。
最上川河口は酒田港と全然分離して南に移し、右岸新堤は酒田市対岸中洲の延長上に築き、本流と酒田港の連絡には閘門を設け、右岸に防波堤を設け、左岸に防砂堤を築造する。また酒田港は港口において、中央突堤と相対して防波堤を築き、漂砂の侵入を防ぐとともに、港内は浚渫して沿岸を埋立て、かつ適当の護岸工事を施すものとする。(酒田港誌)
7月25日琢成第二尋常小学校において、酒田重要港湾編入祝賀会を開催する。
11月内務省最上川改修事務所では坂上丈三郎主任指導のもと冬枯れで水量の減じた時期を利用して今の体育館付近で最上川をせきとめ、港と川を分離する工事を開始する。浚渫船は最上号と砂潟号で、他にトロッコを用いた。
昭和5年19301月7日午前7時30分、下瀬締切工事が終り、最上川の流れは完全に止る。工事関係者は思わず万歳を叫んで喜びあった。いわゆる酒田港の河海分離工事で、これにより最上川から流出する土砂が港へ入るのを防ぎ、港深を保つことを計った根本的改修工事は一応完了した。
3月12日雪解水のため港の締切り面が決壊しそうになり、酒田飽海の消防団員1500人を動員し、山居倉庫と米屋の空俵を集めて土のうを作り、古畳まで投げ入れてようやく防ぐ。
12月臨時港湾調査会で酒田港修築費が150万円に決まり、酒田港修築計画を原案通り可決する。
昭和7年19323月16日川村本県知事が酒田港第二期計画につき、県の方針を発表する。山形市四山樓における鉄道運輸総会の宴会席上、川村知事は荒木酒田商工会議所会頭に向い、非公式ながら酒田港第二期計画につき、県の方針を発表する。その内容は酒田及び酒田港に対して、殆んど致命的・断圧的・侮辱的なものであり、この事が巷間に伝わると、ついに三万町民の奮起となる。(酒田港誌)
4月2日川村知事の発言に端を発し、酒田全町実業団体、中和会外七団体主催、一千余名が出席(公会堂)し、酒田築港促進連盟が成立する。(酒田港誌)
5月28日川村知事が「酒田港よ何處へ往く」というリーフレットを連盟会長中村禎吉に提示する。(酒田港誌)
5月31日右リーフレットを公開して、酒田町民の奮起を促す。築港促進連盟は成立以来、全町与論の中堅となって、各方面にわたり、活発敢為の運動を継続する。
5月当港河海分離工事が完成する。下瀬背割堤防より、南方突堤まで、700メートルの締切は、昭和6年11月より開始、冬季間は作業を休止し、4月下旬より再び着手して本日完成する。これを以て酒田築港の眼目たる河海分離は完了する。(酒田港誌)
6月2日市制施行促進連盟において「日本海に於ける重要港湾とその酒田港」なるパンフレットを各関係方面に配布する。
11月14日内務・大蔵の省議において酒田築港8ヵ年継続事業、工費165万円に決定、支出内訳、昭和8年度より、同14年度まで各毎年20万円宛支出、同15年度は25万円。(酒田港誌)
11月21日酒田町当局、酒田築港促進連盟幹部等が急遽上京し、山本内相・三土鉄相・鈴木政友会総裁・内務省各局・貴衆両院議員等を訪れ意見を開陳する。また、本県選出代議士や上京の本県会議員と力を協せて、その事の達成に奔走し、民政党本部に太田貴族院議員を訪ねて援助を懇請する。(酒田港誌)
11月25日閣議において昭和8、9両年継続事業工費70万円を以て酒田港修築のことに決定する。
昭和8年19334月2日酒田築港問題のために奮闘した酒田築港促進連盟は、設立以来満一ヵ年を経過し、ほぼ目的を達成したので、臨時総会を招集し、その解消を決議する。記念として酒田市当局と協力し、公会堂において、港湾協会副会長松波仁一郎博士の講演を聞く。(酒田港誌)
5月24日酒田港修築工事起工式を光ヶ丘埋立地、山形県営上屋において挙行し、式後、同所で祝宴を催す。(酒田港誌)
5月山居町に内務省新潟土木出張所と酒田港修築事務所が設立される。
昭和9年19345月8日北鮮定期航路船、島谷汽船会社の笠戸丸2,424トン・乗客定員195人)が第一回の入港をする。船長永田輝登らを迎えて盛大な歓迎会を催す。
昭和12年19371月酒田港の上屋および鉄興社の大浜工場進出に伴う臨港線の建設工事が始まる。
3月新町に酒田港務所が設置される。
昭和18年1943酒田築港同盟会と酒田観光協会が解散する。(酒田市議会史年表)
昭和21年19461月酒田産業振興会および港湾維持連盟がつくられる。
昭和22年19477月24日港祭りが復活する。
12月13日寒波襲来により酒田港が三十数年ぶりに結氷する。同月18日の港内の氷の厚さは20センチメートルとなり、汽船3隻と機帆船40数隻が釘づけとなる。結氷の原因の一つに、背割堤が決壊し、最上川の淡水が流入したことがあげられる。なお17日結氷中の酒田港に寄港しようとした機航船が3千トン岸壁付近で船腹を破損して沈没、ドラム缶150本を失う。
酒田港期成同盟会がつくられる。
昭和23年19481月酒田港が全国14港湾とともに開港場に指定される。税関支署を小幡洋館2階に置き、のち日和山公園地内に新築する。
7月酒田港湾協会がつくられる。
7月酒田港が復興し、戦後、宗徳丸が初めて入港する。
7月開港指定、税関開署祝賀行事が行われる。(酒田市議会史年表)
昭和24年194911月30日酒田港背割堤復旧工事が完工する。総工費2,771万余円。(酒田市議会史年表)
昭和26年19516月山形県が酒田港の管理者となる。(酒田市議会史年表)
昭和27年19522月酒田港航路安全宣言が発せられ、中国船などが塩を積み、相次いで入港する。
7月酒田港が入国管理令による指定港となる。
この年酒田から初めて北洋漁業に出漁する。出漁のとき、大漁旗をかかげ、ボリュウムを高くした音楽が鳴りひびく中、家族や大勢の市民から見送られて出航する港風景はその後、酒田の春の風物詩となった。
昭和28年19537月山形県港湾協会が設立される。
昭和29年19541月酒田港湾振興会がつくられる。
12月山形県港湾計画会で酒田港の「十ヵ年港湾計画」を決定する。
昭和32年19572月酒田港が木材輸入港に指定される。
7月仙台入国管理事務所酒田港出張所が設置される。
昭和33年19581月ソ連船が木材を積んで酒田港に入港する。
昭和34年195911月酒田入港最大の大型貨物船、英国船ミプレ号(一万トン)が入港する。
昭和35年19609月マンモス貨物船協和丸1万519トンが入港する。
10月この年の外国船の入港、61隻。
昭和37年196211月16日朝鮮貿易の第一船(第十二金生丸)が、銑鉄540トンを積んで入港する。(酒田市議会史年表)
12月港駅の整備拡充が完了する。(酒田市議会史年表)
昭和38年19635月18日酒田港に新鋭タグボート「おばこ丸」が配属される。(酒田市議会史年表)
7月1日運輸省直轄で酒田新工業港建設基礎調査が始まる。(三ヵ年計画)(酒田市議会史年表)
11月1日酒田港植物防疫官事務室が開設する。
昭和39年196411月20日大型船サンタマリア号が入港する。
昭和41年1966港湾審議会で酒田港拡張計画(北港計画)を決定する。
昭和42年19673月浚渫船月山丸が酒田港に配備される。
11月16日ソ連木材専用船ベルズ・ナレス号が入港する。(酒田市制50年)
11月酒田港年間荷扱量は120万トンとなる。(酒田市制50年)
昭和43年19689月19日昭和23年以来2万人目の外国船員を乗せたギリシヤ貨物船ジョージアス号が入港する。
11月16日酒田港改定計画(北港)、昭和50年開港目標、工費約138億円につき産業会館において県より説明される。(酒田市議会史年表)
11月酒田港荷扱量、130万トン。
昭和44年19699月14日酒田港石油基地のさん橋が竣工する。
10月8日石油基地が操業開始し、この日初めて石油タンカーが入港する。
昭和45年19708月4日酒田北港(宮海)の起工式が行われる。本港は最上川河口のため土砂が流れこみ限界があることから、近代的築港技術により、大型の近代港湾をつくろうというもので、酒田にとってまさに歴史的なことである。
昭和46年19716月1日北港背後地内産業公害総合事前調査が行われる。(酒田市議会史年表)
7月15日酒田港で異常濃度の鉛が検出される。(酒田市議会史年表)
9月16日酒田港湾水域での重金属汚染が表面化する。
10月住友軽金属の北港背後地への酒田進出が決定する。これにより、アルミ産業の将来性への不安と、公害発生を恐れて、進出に反対する勢力と、大企業を誘致しなければ酒田の発展はありえないとする賛成派の間で、市民を二分する抗争が激しく展開される。
12月25日北港開発と公害を考える市民対話集会が産業会館で開かれる。(酒田市議会史年表)
この頃北港開発のため宮海地区の松林から約40万本から50万本ともいわれる松を切り倒す。自然環境の変化が心配される。
昭和47年19726月25日北港開発と公害を考える市民対話集会が開かれる。
7月25日酒田開港三百年記念行事が行われる。(酒田議会史年表)
12月16日定例県議会は酒田北港工場用地の契約をめぐり、公害問題で空転する。(酒田市議会史年表)
昭和48年19734月28日酒田港内に沈澱している水銀汚染問題が起きる。
6月酒田港内の水銀汚染、ヘドロ投棄による海域汚染問題で、県生協連は同海域で捕れたカレイ・キスなどの不買を申し合わせる。
昭和49年197411月酒田北港へ第一船、ソ連船SIBIRTSEVO号が入港する。
11月酒田北港の開港記念式を行う。(現地及び市営体育館)(酒田市議会史年表)
昭和50年19757月26日北港工業用水道が通水する。
10月1日酒田北港地域大気環境監視テレメーターが始動する。
10月1日国勢調査実施、人口97,723人。(酒田市議会史年表)
昭和53年19783月31日北港古湊ふ頭第二号岸壁が完成する。
12月15日港湾審議会第84回計画部会で酒田港港湾計画の一部変更を(土地処分地)決定する。
昭和56年19811月6日庄内空港建設促進期成同盟会が設立される。
昭和59年19843月27日酒田共同火力への石炭船第一船入港式が行われる。
6月14日五万トン級の第一船が入港(英国船Sir John Fisher号)する。