慶長8年(1603)

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慶長8年1603 3月 義光が東禅寺城を亀ケ崎城、大宝寺城を鶴ケ岡城、尾浦城を大山城に改める。
庄内二郡の代官、赤尾津由利という人の勤めの時、坂田の湊より大亀が這上ったのを山形の城下に注進したところ、最上駿河守悦び給い、大宝寺を鶴ヶ岡と改め、坂田を亀ケ崎と改められて、両郡中7日間、酒宴興行を免される。(荘内物語)
伊豆守が酒田の町年寄にはかり、焼跡を整理してほぼ現在の町並に割直す。このとき、本町と内匠町の中間に中町をつくる。
酒田町年寄の上林和泉・永田讃岐らが三十六人の長人に諮り、いままで釈迦如来だけを祭っていた下の山王社に、山王神体を奉安し南北両殿とする。
下山王宮はもとより大己貴命を祭る。中世以後、本地仏釈迦如来の仏体と混淆したが、慶長8年神体をその南に奉安し、これを本宮といい、南殿と称した。本地仏を北殿と称し、すべてこれを山王両社と称した。北殿は別当不動院岡部氏が奉仕し、南殿には東禅寺山王社家齊藤大隈守が奉仕する。当時、社殿は東向である。
西浜一帯の地は製塩を以て業とする。他の貨物とともに最上山形等に輸送して互いに交通をしていたが、その役銭取扱いは永田勘十郎があたる。慶長時代には駒口永銭と称し、黒金玉を以って上納していた。(永田文書・本間美術館蔵)
この年の年貢塩は95俵(一俵二斗入)。
田川・飽海の領界を最上川筋と定める。
最上氏が庄内を領有するに及び最上川舟運が盛んになり、酒田における造船も活発となる。
伊豆守が亀ヶ崎から荒興野に至る道路を修築し、荒興野に船着場をつくる。
北新町の稲荷神社社殿を再建したと伝えられる。