慶長16年(1611)

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慶長16年16118月7日亀ヶ崎城主志村光安が没する。伊豆守、山形城主最上義光の武将で長谷堂の城主をつとめる。義光の命によって酒田を攻略、その功によって東禅寺城代、まもなく城主を命ぜられ川北三万石を領した。酒田の焼跡を整理して現在の町並を造成するとともに、最上川の舟着場を設けるなど、10年にわたって酒田治政確立のため力を尽した。一説にこの年3月7日死亡ともいう。明治42年8月、青原寺境内に「志村伊豆守光安追懐碑」が建立される。岡千仞撰・須田古龍文・書。
9月伊豆守の子志村光惟があとを継ぎ、庄内の検地を完成する。
この年、最上義光が庄内並びに由利の検地を行う。飽海の検地奉行は、志村伊豆守の家老進藤但馬、田川郡の検地奉行は下対馬守の家老日野備中である。(酒田港誌)
最上義光が大物忌神社に吹浦外4力村、高71石余を寄進する。
この年の熊野田村・本河村・熊野田興屋村・横代村の各検地帳の写しがある。(山形県史資料篇十二)
この年の荒田目村・若王寺村の各年貢皆済状がある。(県史資料篇六・七)
宮内村の検地帳に、中島の白山姫神社の社領が記されている。(出羽国風土略記)