慶長17年(1612)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
慶長17年16126月4日義光が庄内寺社へ社領寄進の黒印状を与える。上の日枝神社(七石八斗四升)、天正寺(十七石五斗五升)、亀ヶ崎八幡(二十二石四斗五升)、朝日山八幡別当(九石三斗五升)、梵照寺(十三石)、一条八幡宮(六石五斗余)とそれぞれ土地を寄進する。世にこれを義光知行という。
10月狩川の北楯堰が竣功する。(山形県史)
これより前、最上義光は狩川城主北楯大学利長をして、狩川溝渠を開削させる。由利・飽海・櫛引・田川諸郡に課して役を起す。夫を役する6187人、8か月を閲して成る。義光は邑三百石を利長に加賜してこれを賞する。いわゆる大学堰である。(北楯文書)
10月志村光惟が吹浦に神宮寺を建てる。
伝馬町はこの年から明暦2年までにつくられ、秋田街道の入口にあたり、伝馬宿駅であったことから伝馬町とつけられた。三十六人衆の馬をもって伝馬としたと伝えられる。
「酒田惣中いへかまど人数の一紙」に、大町(本町か)家数二〇八間、うちおとな三十六間、小路・秋田町・新町・上小路・下小路・越中町(中町か)合わせて六八七間、寺方十四間・門前七十二間。計家数九八二人数二、一八二とある。(山形県史二巻)
亀ケ崎城銀子算用帳に「上方へてん取ニ御代」とあり、連歌の批点を上方に乞うていたことが知られる。