慶長19年(1614)

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慶長19年16141月最上義光が山形で没する。69歳。家親がそのあとを継ぐ。
6月1日家老進藤但馬が没する。六十余歳。安清・安道。亀ケ崎城主志村氏の家老、飽海郡中野俣村(現在の平田地区)進藤楯に居住して禄1500石を与えられ、庄内検地の折には川北の検地を担当。青原寺に葬られる。
6月1日最上氏の内紛で、志村光惟(19歳)が家老進藤但馬とともに、鶴ケ岡城外で鶴ケ岡城主新関因幡の臣一栗兵部のために殺害され、峰鷲院に葬られる。弟九左衛門がそのあとを継ぐ。
この頃酒田は諸国廻船の湊町として栄える。
当所は西海に名を得た船着場であるから、諸国廻船が入湊したのは昔よりの事だったが、町割を等今の模様に取弘め、繁華都会の船着となったのは、慶長中よりの事と知られる。(筆濃餘理)
この頃、酒田には新井田川岸米屋町の上蔵・御宿小路の山形蔵、この外商人の倉庫があって、最上川流域諸領地の内、最上氏領内の売払米は、ことごとく最上川を利用して酒田に下した。庄内米は土蔵・下蔵に、山形米は山形蔵に入れた。その外は町人の町蔵に入れた。当時の廻米方法は区々として一定しないが、慶長中は敦賀、大津地方の米商人が酒田に来て米を買い入れたり、酒田商人の買い入れるものも少なくなく、いずれも敦賀・大津地方に廻送していた。
二木与助・粕谷源次郎、永田勘十郎等は一流の米問屋で、多くの倉庫を有して米を預った。預り米に対しては手形或は米札を発行して、売買に供していた。(酒田米の歴史)
慶長の末から元和にかけて、加賀屋与助が最上家の勘定奉行との間に米札を用いている。これは日本における米札・米券使用の始まりといわれる。
最上家親が庶兄の清水城主清水義親を滅ぼし、清水の川船中継駅を廃し、村山郡大石田まで酒田船をさかのぼらせる。
斉藤筑後助左衛門、盛広。亀ヶ崎城将志村九郎兵衛(光惟)の三奉行の一人。知行390石を与えられていた。筑後町は筑後の居宅跡と伝えられる。かな草子文学の創始者齊藤以傳の父。