元和8年(1622)

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元和8年16227月18日最上家(義俊)が改易され三河・近江に移り一万石を領する。この時遺臣の一部は鵜渡川原に土着する。鵜渡川原の町名の多くは彼らの先住地の名をつけたものという。
9月中村城主相馬義胤が亀ケ崎城を引き継ぐ。
9月25日酒井忠勝に庄内13万8千石を賜い移封する。10月に松代を発し小国口より入国、居城を鶴ケ岡に定め、亀ケ崎城には伯父松平甚三郎忠恒を城代としておき、大山には代官を置く。このとき、はじめ亀ケ崎城を居城としようとしたが、三十六人衆の治める自由都市であることを考えて鶴岡を選んだともいわれる。(荘内史年表)
寺内近江・斎藤筑後・高橋伊賀が内町に伊勢より豊受神社(現亀ヶ崎)を勧請したと伝えられる。
10月松平甚三郎が初代亀ケ崎城代となり入城する。町奉行一人・物頭二人・平士二十人・足軽五十人で城下を警護する。(雞肋編)
12月忠勝が相馬義胤から亀ヶ崎城の兵具を引き継ぐ。
最上家のあとへ酒井家が入部し、幕府が鶴ヶ岡・亀ヶ崎二城を収めて、酒井家に引渡したときの引渡目録によると、小物成(雑税)は次のようである。
一、漆三十五桶但壱桶二〆目  一、蝋十三貫二百匁 一、塩六十四石三斗九升八合  一、炭弐百壱俵 一、銀八拾六匁灰吹役  一、銀百九拾弐匁  一、いか役
   右庄内川北
一、漆百四貫五百五拾匁
亀ヶ崎城の引継ぎ目録に、本丸には部屋数が17、総畳数は404畳で一番大きい大広間は78畳である。本丸の中には風呂屋と湯殿、ものぬぎ(脱衣場)がある。台所は五間に三間で別棟になっている。本丸の外に建物が6つあり、その総畳数は141畳で、勘定土蔵をはじめとする土蔵は4棟である。
酒井家入部に際して、三十六人衆を御家人に取立ようとする動きもあったが、武士たることに少しの未練もなく、いさぎよくこれを断わり、町人自治の面目を示す。いままで「坂田」と書いていたのを、酒井家入部以後、酒井家にちなみ、しだいに「酒田」と書くようになる。
忠勝入部とともに飛島もその管領となり島役人二人を派遣し、年貢その他の事務にあてる。当時の行政組織藩庁には郡代があり、藩の経済と農政を管理し、その下役に郡奉行と代官がいる。郡奉行は水利と土工をつかさどり二郷に一人を配する。代官は郷ごとに置かれ、農政に当り租税事務を扱い、各組の大肝煎を統制した。大肝煎は組内郷村の事務を処理する。この組織が永く庄内藩の行政組織として伝わる。(荘内歴史年表)
内町組・米屋町組から奉行・与力・同心らの武家屋敷を引き上げ、町屋敷とし、堀をうずめ、土手をくずして酒田町組との境を取り除く。
忠勝入部に際し、駿州日陰沢の金子掘200名を呼寄せ、立谷沢砂金採取に従事させる。また、入部に先立ち、角田儀左衛門を庄内に派遣し、調べさせた末、庄内は農業に適していることを知り、農業を施政の根本とすることに定める。(荘内歴史年表)
最上家改易に際し、上使伊丹播磨守が最上・庄内に下向し、船着場などの調査をする。このとき、清水側は清水船方の由来を述べ、復活を願い出る。
船継駅を大石田から清水にとりもどす。
本町一ノ丁ニノ丁の間、当時の林昌寺小路(現上の山)の東側から浄福寺が現在地に移転する。
酒井家入部以後、亀ケ崎大工の本町七丁目本間与左衛門が幕末まで酒田大工頭となる。
この年、大坂商人大和屋某が当湊より米1800俵を積出し、暴風にあい濡米600俵を出す。(酒田港誌)
齊藤筑後を父とし、東禅寺右馬守の妹を母として筑後町で生まれた齋藤以俥は最上家没落により、浪人となり、一家をひきつれて越後にゆき、さらに越後から江戸に出て医者となり、わが国、“かな草子文学”のさきがけとされる『可笑記』や『百八町記』をあらわし、文名をとどろかせる。井原西鶴に影響を与える。
イエズス会のディエゴ・デ・カルヴァリオが庄内のキリシタンたちの招待により来酒し、酒田で初めてミサ聖祭を行い、3日間滞留し、多大の収穫を得る。(東北キリシタン史)
酒田の人口4105人。
新田目村を開発する。
酒田御町奉行が始まる。初代奉行新家五右衛門。(大泉掌故)
高橋太郎左衛門が遊佐郷、三代目池田刑部左衛門が荒瀬郷の大肝煎となる。