寛永元年(1624)

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寛永元年16242月永泉寺二十二世格翁泉越が南遊佐村米島の永運寺をひらく。
7月10日寺町の観法寺・雲龍寺が創建したと伝えられる。
7月28日新関因幡守が上州で卒する。歯骨を藤島法眼寺に葬る。(荘内歴史年表)
12月26日亀ケ崎の大工本間与左衛門は最上家以来の大工で、酒井家入部以降も奉公しているので、田畑五反七畝六歩を賜わる。(編年私記)
郡代柴谷武右衛門が江州大津の法にならい、米札をつくり通用させたという。もっとも米札の使用は最上時代から始まっており、制度化したものであろう。(酒井家世紀)
新米屋町の町割をし町並とする。検地奉行吉田四郎左衛門。
林昌寺が林昌寺小路(上の山)から内匠町に移る。
鶴岡および酒田・加茂の両湊に倉庫をつくり、領内の貢納米を入れ、藩士の家禄米はすべてこの倉庫の預り米券で、10、11、12月の3回に給与する方法を定める。また、鶴岡に米座を設け、米商相互の売買を便利にする。酒田の倉庫は規模が一番大きく、新井田川に面し(旧商業高校)新井田蔵と称された。のちには25棟(のち30棟)9万石を収容する。いろは四十八蔵とよばれた。ここには藩貢納米の7割を入れた。藩士には禄高に応じて米券を給与し、藩士は随時、米巻を米問屋に売り払って生活した。蔵は明治27年の大震災で焼失する。
寛永・正保の頃、最上川河口の沖に砂州ができて、大船が入湊できなくなり、一時湊外で荷物を掛積みする。
廻船問屋、秋田町の渡辺五兵衛(通称渡五)が河口開発を企て藩庁の許可を得る。
「山王宮当舞控」に寛永元年いなり小路治兵衛とある。町名は稲荷神社があることによる。
茨野住の小鳴鹿之助が酒井家に召抱えられ、御貝役人となる。(大泉紀年)