寛永2年(1625)

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寛永2年16257月20日北館利長が没する。78歳。利長は大学と稱する。最上氏の臣、狩川城主である。慶長17年、立谷沢川より水路を開鑿する。大学堰といわれ、灌漑の田面は4千町歩に及ぶ。文化10年碑を建てその功績を勒する。菅基の撰文、白思の書である。大正7年翁を祀る北館神社を館山城跡に遷し、同12年5月郷社に列せられる。昭和47年に現在地へ移建する。(酒田港誌)
10月忠勝が領内の雑課を定める。(大泉紀年)
山形城主鳥居左京亮が新庄藩に交渉して、船継駅を清水から10年間、大石田に移す。
手蔵田村で定納願いを出す。高462石余、内定納取米248石余。(上に同じ)
関の勝願寺が創建する。
下の山王が荒町方面から鷹待小屋(今の台町の北)に移転したと伝えられる。