寛永20年(1643)

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寛永20年1643酒田湊薬師はもと高野浜にあり、別当を万福寺という(年代不詳)。のち秋田町西側に移され、寛永中に桶屋町の修験宝鏡院が別当となり、薬師堂を上の山の同宅地内にたてる。明治3年、薬師神社と改める。ここの本尊の薬師如来は泉流庵開基徳の前の念持仏といわれる。
この頃、庄内藩の払米量は五、六万俵、六千五百両前後という。
小出谷地に新川を掘る。
中吉田村太郎右衛門等が上藤塚村肝煎作助を、植木谷地を切りつくし、廃田復旧の新田を隠田にしたと訴える。(日向川史)
飛島に小坂村が開村する。
古荒新田の伊勢両宮社を勧請したと伝えられる。