慶安3年(1651)

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慶安3年1651酒田から最上川を積上る荷物は塩・いさば・茶・くりわた・古手・木綿・雑貨などで、大石田その他から積下す荷物の大部分は米で、その他、紅花・大豆・青苧・蝋・うるし・まわた・小豆・荏油・胡麻・水油・紙・葉煙草などである。米は庄内・山形・米沢・上ノ山・新庄諸藩の払い米約24万6千俵の他、幕府御料米の積下しや、最上商人米約7万5千俵と多かった。酒田で蔵入になる者と沖出しにされる者の割合はおおよそ、蔵入4対沖出6であった。
酒田船と大石田船との間に、再び争いが起こり片道運送の協定を結ぶ。
この年以来大石田側でも追々船を造立し、上郷へ積送り、上郷でも船を造立し、荷物を積下すようになり、大石田船は酒田への下り荷だけ、酒田船は大石田までの上り荷だけとし、戻り船には一切、荷物を積まないこととする。これを「片道運送」の取り決め、慶安の古法といい、享保8年の新法ができるまで続く。
五丁野・一貫野を流れる最上川の曲流を改めるため、落野目境から大宮の畑地に幅60メートル、長さ100メートル、蛆木野谷地に幅50メートル、長さ70メートルの新川を開削、3ヵ年を費やして完成する。この後大宮は飽海郡と地続きになる。
遊佐郷大肝煎高橋兵右衛門が吹浦新湊開設で、反対派と鶴岡会所で論戦し、のち、そのことで兵右衛門は解職閉門となる。(県史資料篇六)