明暦2年(1656)

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明暦2年16562月25日大肝煎後藤掃部之助が没する。42歳。元和元年生まれ。最上氏時代新堀村で肝煎をつとめた旧家。最上の頃の年貢皆済状を所持していたと伝えられる。
5月酒田市内物騒となり火つけのものが徘徊するため、取り締まりを厳しくする。
5月2日突抜から出火して704戸を焼く、世に清治郎火事といわれる。この大火は、突抜(後の内町)より猟師町(後の出町)土塚山に至り、704軒を灰燼とし、全町1,277軒のうち過半を失った。この焼失場所は、当町殷盛の商家全部で、この機を逸せず、都市計画を決行したのは、時の町奉行乙坂六左衛門である。あるいは池田四郎左衛門が検地奉行となり、当町の町割をしたという。六左衛門は正保2年より寛文3年に至る19ヵ年間、町奉行として、当町に在職する。この割方を見ると東西に貫通する数条の大道を設け、南北に多くの小路を設けている。これは当町が海岸に位置しているので、常に東西の強風を受けやすく、火災の区域が南北に延焼するのを防ぐためにほかならない。六左衛門は山王堂町より秋田町に貫通する火防線を設けた。中三間を空地とし、これに松を植える。俗に松原地と稱した。この火防線は今の本町通りと、中町通りの中間を貫通するもの。維新以後ほとんど町民の占據する所となり、その面影をなくする。わずかに本町六丁目裏の小路や鐙屋裏の松等がそれを伝えている。火事
5月7日寺町に正伝寺が創建したと伝えられる。
6月現存最古の酒田町絵図ができる。「明暦の絵図」とよばれる。これは大火災の焼跡を従来の絵図に記入したものである。絵図は志村伊豆守の町割のおもかげを残していると思われ、町並の幅員、各町の町名・間数・戸数などが正確に記入されている。
中町七丁に家づくりがされ、一丁目を鍛冶町(14軒)、二丁目を桶屋町(20軒)、三丁目を大工町(21軒)という。
宿駅伝馬町は「明暦絵図」に長さ84間、屋敷33軒、伝馬33疋とある。
酒井藩では御米宿を鶴岡一日市町の西海三郎兵衛に命じて米札の払い下げを扱わせる。
台町はあたりが一面の砂山であったのを、この2年から家作りが始まり、天和3年には上下二町、表町二丁となった。
肴町は明暦図に細肴町16軒、片肴町26軒、天和には細肴町21軒・片肴町42軒とある。
中之口町は明暦ころ家数16軒とある。亀ヶ崎城の中の口に当たっている所から、中之口川端町とよばれた。
寺町は火災の類焼をおそれて寺が集まり、当時酒田町の北の守りとなった。
十王堂町は明暦図には横鍛冶町20軒とあるが、のち十王堂があるところから十王堂町と名付けられた。
浜町は明暦図に浜町14軒とあり、天和調書(1683)には18軒とある。この北に善導寺があったので、善導寺小路ともいった。
荒瀬町は明暦図に荒瀬町18軒とあり、天和調書には25軒とある。町名の由来は、ここから北に荒瀬郷に通ずる道路があり、また、ここに荒瀬郷の米宿があったことからという。
明暦後、天和までの間に檜物町ができる。
この年酒田の戸数は、1,277軒で内町組228戸、米屋町組165戸、酒田町組884戸。人口は6,385人(推定)。
10月14日酒田鍛冶と在郷鍛冶との公事裁許を仰せ渡す。(大泉紀年・中)
10月洪水、本町七丁目から肴蔵まで120メートルが川欠となる。
酒田町の肝煎に一軒屋敷を無役地として与え、肝煎小路と称する。
土崎村と荻島村との間に谷地論がおこる。
運清が大豊田の快雲寺を創建したと伝えられる。