寛文5年(1665)

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寛文5年16651月14日越前国の船乗り彦兵衛が酒田で病死し大信寺に密葬される。大信寺の過去帳を調べると、北前船乗組員死亡者124名が記録されている。一番古いのはこの年で、生国としては播州坂越浦が最も多い。酒田の問屋では出町の柿崎孫兵衛と網干屋与治右衛門の客船が多い。死亡者に真宗西本願寺門徒が多いことから、同寺で多く密葬したと思われる。
1月25日領内の酒屋に対し、今後は酒樽を一斗入りにして焼印を押し、桝はお蔵の払い桝を用いるように達せられる。(大泉紀年)
2月町奉行成沢彦右衛門が酒田町奉公人に寺請証文を出すことを達する。
2月25日キリシタン改めをし、宗旨手形を取るよう厳重に達せられる。(大泉紀年)
最上川筋茨野新田の土手がこわれ、翌年より遊摺部村に新川を掘替える。