寛文8年(1668)

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寛文8年16684月羽黒山の天宥別当が伊豆の大島に流される。天宥は羽黒山中興の柤。剛膽にして策略に富み、書畫彫刻を能くした。幕府のとがに觸れ、伊豆国大島に流され、ここで没する。元禄2年、芭蕉はこれを悼んで
  その魂を羽ぐろに帰せ法の月
と詠んでいる。天宥が彫刻した華表(鳥居)、石橋、仏像その他の遺物が多い。
5月鵜渡川原の足軽4人(権十郎・甚五右衛門・与左衛門・新蔵)と川北のもの7人が、宗門改めを拒んで追放される。
10月大石田で酒田川船に対して税金を課する。これは最上川上流筋における課税の始まりである。
11月28日大山藩主酒井忠解が卒する。嗣なく領地一万石は公収される。(荘内史年表)
正木茂左衛門は御城米の最上川川下し運賃を安くしようと画策、それに対し酒田と大石田の川船差配役(大庄屋)が手紙で情報を交換し、協力して運賃の値上げを交渉している。(寛文8年留書帳・伊東家文書)
山形藩の覚書に、酒田沖出しは紅花450~460駄、青苧が430~440駄、真綿が16~17駄、蝋が52~53駄、漆が15駄とある。
川南の遊摺部が川欠のため30軒のうち、18軒が漆曽根谷地に移り、新田を開く。大多与右衛門が主となっていたので大多新田と称する。他に8軒が辻興野に移り、6軒だけとなる。(大泉紀年)