寛文12年(1672)

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寛文12年16721月7日出羽御城米の直輸送整備の命を幕府から受けた江戸の豪商河村瑞賢は、手代の雲津六郎兵衛と梅沢三郎兵衛を交互に酒田に差向けて、中町二木九左衛門宅に宿をとらせ、諸般の準備をさせる。
1月鶴岡・亀ヶ崎の足軽の弓・鉄砲・人数を改める。惣人数828人、うち684人は鶴岡、144人は酒田。(荘内史年表)
3月大風により、酒田川口・浜中・十里塚で、8人から14人乗の讃岐の公儀役船等8隻が破船し、うち9人乗の猟師町次郎左衛門船では水主3人が水死する。(大泉紀年)
4月2日鶴岡一日市御坊橋、浄敬寺に越後の僧源久が来て、御蔵門徒・土蔵法門を宣布し信徒7名が閉門その他に処せられる。(大泉紀年)
4月8日河村瑞賢の一行56人が来酒し、中町加賀屋(二木)九左衛門宅に宿る。
5月最上・由利・丸岡の御料米3900石を西廻りで廻送する。この後西廻り航路による大坂交通の海路が大いににぎわう。酒田に瑞賢倉ができる。(日和山公園内に瑞賢の銅像と瑞賢倉記念碑がある)。瑞賢倉いわゆる幕府御城米の御米置場の普請は庄内藩で当り、東西150メートル・南北82メートルの周囲に土居・空濠・木柵等をめぐらしたもの。人足総延数30,398人を要し、約1ヵ月で完成した。(中に稲荷神社をたてる。明治16年2月新町稲荷神社に合祀する。)御米置場をこの場所に設けたのは、類焼を恐れたことと、運搬の便利さからである。
幕府城米の専用米倉設置により幕府負担の蔵敷料の節約になったが、その半面、酒田の蔵宿衆にとっては蔵敷料が入らなくなり、大きな損失となる。
瑞賢は川船も海船同様幕府の雇船とする方策をたて、川船の運賃をめぐる紛争をなくしようとした。またこれによって運賃の軽減化を図った。
5月最上・酒田城米輸送について、二木九左衛門・伜与兵衛の二人を用達に任じ、一人にに五人扶持を給する。
7月亀ケ崎兵具奉行を従来一人であったのを二人にする。
この年、筑後町の米蔵を新井田に移す。上蔵と新井田蔵の創始は詳かでなく、もと板蔵であったのを、万治3年以後、火防のため土蔵に改造した。上蔵は、川北三郷(平田・荒瀬・遊佐)の租米を蔵めた所で、下蔵への対稱である。下蔵は、今の出町端れの日和山下辺、字土塚山にあって、丸岡・大山・京田・中川・櫛引等の幕領(俗に天領または御領地という)の租米を収めていた。明暦2年焼失の後、寛文7年これを筑後町外に移し、狩川蔵四棟のみ新井田の内、館野権吉宅跡に移した。ところが当時、最上川は屈曲し、洪水ごとに亀ケ崎城内及び上蔵に氾濫の患があったので、寛文10年、広野谷地の内、巾20間長さ28町餘の新川を開鑿し、流勢を南に導き、その害を避けたが、寛文12年、新井田字六ツ目に住んでいた同心衆に替地立退を命じ、筑後町外の下蔵をこゝに移し建て、新井田蔵と稱した。その後数十棟の倉庫が檐をつらね48棟に及ぶ。俗に「いろは蔵」と稱した。維新の際、朝廷に収められ、のち本間家の所有となったが、明治27年の震災により、ことごとく烏有に帰した。(飽海郡誌)
西廻り海運の成功により幕府は賞として瑞賢に破格の三千両を与える。
御城米船の出船は午前10時から正午頃まで、入湊は午後4時頃がピークであった。
妙法寺境内に真量坊が創立される。
上興屋の皇大神社を創建する。
豊川の宝昌寺開山、澤山雲龍が没する。
大町組大肝煎尾形八兵衛が、漆曽根谷地等の新田開発を願い出るが、小泉組の反対で中止となる。(八幡町史)
船場町の秋葉神社が遠州秋葉山より勧請されたと伝えられる。
荒瀬町の稲荷神社が創建したと伝えられる。