延宝元年(1673)

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延宝元年1673庄内藩が高力忠兵衛の意見で、私領米の大津廻しをやめ、西廻りで大坂に送る。
庄内藩米を大坂に送る際はおおむね雇船で、延宝中には加賀・越前地方からの雇船33隻で送られる。
河村瑞賢が幕府にはかり、酒田に城米浦役人二人を初めておく。初代は二木九左衛門と二木庄兵衛の二人。その後、ほとんどは世襲であるが、病気その他の都合で原矢太右衛門・寺島彦助・小幡嘉兵衛・富樫伊兵衛・渡辺太助などと代っている。
廻船出航の際にはこの年制定の「船中条目」(出役手代奥書)・「送状」・「船中日記」以下の書類が渡される。
城米川下し破損米の辨償規約が定められる。(荘内経済年表)
三十六人衆に本間久右衛門・高橋庄左衛門・松田又左衛門・近江屋勘兵衛の4人が新しくなる。
下川村と浜中村で地境論が再発し、代官所立合いで境界を定める。(浜中村遺書)
平田郷大庄屋高橋利右衛門が漆曽根四力村と共に、尾形八兵衛がとり止めた漆曽根谷地開発の許可を受ける。(八幡町史)
この頃から、以前は白であった腰巻を歌舞伎役者の創案で、赤い腰巻をするようになる。はじめ遊女が用いるようになり、一般にも流行するようになる。また一般に櫛をさす。