天和2年(1682)

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天和2年16822月酒井忠高を五千石で餘目へ分知する(一に天和元年とも云う)。貞享3年没する。24歳。(酒田港誌)
2月27日雲照寺の二代目住職橘玄周が没する。70歳。慶長18年生まれ。
4月3日庄内空前の大洪水で新井田蔵に3尺浸水し、3万7千俵の濡米を出す。またこのため延宝の治水工事が一朝にして押し流される。その後川原を生じ、いまの船場町付近が草生地となる。水害
門田村・小牧・茨野新田の土手が破れ、大町・鵜渡川原・牧曽根・漆曽根・酒田町を直撃する。亀ヶ崎城下家中の家々も2メートルばかり浸水する。亀ヶ崎城の御橋残らず落ちる。水害
清川村75軒流れる。寛文3年卯の出水よりも多い。
砂越長応寺の門柱に小船を繋ぐ。(砂越来迎寺年代記)
6月池田盛邑が「独吟百韻一折」をあらわす。(伊東家文書)
亀ケ崎十一面観音堂の古い獅子頭はこの年に作られたものという。
宿駅の伝馬町は「町割家数人数書上帳」に家数66軒、人数355人とある。
八軒町は明暦図に片平町と出ている。この年新たに米屋町より分けて一丁半、50軒からなる八軒町を立てる。当初8軒の人家があったことから町名となる。
この年奇病が流行し、人が多く死んだ。カラカキ病と名づける。病気
近江町は明暦図に浜町横町18軒とあり、この年最上氏時代の川北三奉行の一人寺内近江の宅跡だった所から近江町と改めた。
富豪秋野新右衛門(宗閑)の父光忠が主家福島正則家の断絶で加茂にくる。光忠は最初、安芸厳島神社の神職をしていた。宗閖は海運等の商売を始めて財をなし、鎮守春日神社の祭典を盛大にして神宿をつとめる。この年7月27日没する。茂右衛門家は分家である。
五大院(天神宮)が焼ける。(市史史料篇二)
駄賃、横山より門田まで三里、七十五文。門田より新堀まで十丁、七文。新堀より酒田まで二里、五十八文。(川上記)