天和3年(1683)

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天和3年16833月9日浄福寺の脇寺長専寺が創建したと伝えられる。
3月三町の大肝煎を大庄屋に改める。
5月俳人大淀三千風が伊東玄順(不玉)を訪ねて来酒し、五大院の俳会に連衆二十余名とともに出席する。(拾菻帖・光丘文庫蔵)
 湊女や螢と化粧袖の浦    三千風『日本行脚文集』
筑後町は延宝6年からこの年までに街づくりが行われる。下蔵跡地に屋敷割をするとともに、西方に土手を築き家並とした。志村伊豆守の家老、のち河北三奉行の一人となった齊藤筑後の居宅の跡であったところから筑後町とする。
檜物町はこの年の調書に、家数29軒とある。檜物師が多く住んでいたことから名がついた。また曲師町ともいった。
酒田町数49、戸数2,251戸、人口12,664人。
明暦2年の家数は1,277軒であったのが、それから27年後のこの年には2,251軒となり、明暦2年を100としたのに対して176.3という驚異的増加率を示している。特に湊町である酒田町組だけをみると実に193強でほとんど2倍に発展している。これは寛文12年の河村瑞賢による酒田湊を出発点とする出羽国御城米の江戸輸送と西廻り航路の整備によるものと思われる。
当時入湊の船、年々海船550~750艘、多いときは1000艘を超える。川船2250艘、この頃酒田は殷賑をきわめる。3月から11月まで1日2、30艘の海船が入湊している。従って年間ではおよそ1万3千人もの船乗りが上陸していたと推定される。
移入品は播磨の塩・大坂堺・伊勢の木綿・出雲の鉄・美濃の茶・津軽・秋田の材木・松前の塩物・干物・最上の米・大豆等そのほか和泉・讃岐・加賀・越前などから物産を積んで相次いで入湊する。酒田からの移出品は主として米である。酒田湊は河口湊のため、千石船や七百石以上の船は宮の浦沖、四百石から六百石のものは大浜(高野浜)沖に瀬がかりし、三百石以下の海船が漸く入湊していた。
巡見使来酒に備えて調書が作成される。
本町二の丁奥井五兵衛が札谷地を買取り、新堰を掘る。(飽海郡誌)
西野新田村で兄殺しの弟二人が同村ではり付となる。(川上記)
内町は亀ヶ崎城の総曲輪(外郭)内ということで名づけられ、この年内町三丁半・横小路半丁・家数84軒とある。
浜町の稲荷神社は天和年中に山城国伏見から勧請したと伝えられる。