貞享2年(1685)

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貞享2年16854月5日塩飽島牛島浦船頭長介船が尾花沢領米730石を江戸に輸送の為、4月晦日42艘と共に酒田湊を出て暮に7艘と共に飛島に入湊、1日、5艘出発、佐渡沖で大風に遭い、4日五ツ頃飛島に引返したが、自力で入湊できない為、引船20艘で引入れる。米380俵を損じ、改装して出航する。この日、飛島で救われた船7艘である。(飛島誌)
4月庄内大洪水、茨野新田の堤防100メートルが破れ、門田村の水門を破る。このため川北一帯が氾濫、人馬が多く死ぬ。復旧のため、飛島村南に新川を掘る。長さ2千メートル、幅60メートル、1日2千人の人夫を動員し、19日間を費やす。その他幕領に属する復旧工事が行われ、農民が使役される。水害
5月塩飽島の船頭久右衛門船が津軽鰺ヶ沢出帆、5月1日暮六ツ時強い東風にあう。2日朝自由を失い佐渡沖より流され6日飛島に入湊する。濡米250俵を揚げたがうち100俵は大濡。その他は流失する。(飛島誌)
9月浄徳寺の大和の当麻マンダラを模した大縫マンダラが海路江戸から運ばれてくる。これは京都でつくられ、江戸で表装したもの。まわりに寄進者多勢の名前が縫いこまれている。願主浄徳寺十二代栴誉問察和尚。山城国室の小路の絵師藤原貞行の協力を得て、当麻寺の曼陀羅を写しとり、諸因に背負い歩き、一針二針と道心を勧め、喜捨を受けて成就をはかる。十三代随誉信也和尚がさらに勧進して終に成就する。製作及び寄進者京都縫師湯浅吉兵衛・軸装江戸通油町表具師長兵衛。(この年8月25日完成)このマンダラは酒田における念仏、浄土信仰の高まりを示すもので、宗教的にも美術的にも貴重である。山形県有形文化財。昭和63年大修理を行う。
9月京都の俳人池西言水が来酒する。「蚤させし我恥ふるふ袖の浦」言水
佐藤喜右衛門が大野谷地を開発し、楯之内新田を創立する。この頃、しきりに新田が開発される。
酒井家が「因幡堰」の大改修を行う。(荘内経済年表)
内町の古老六人に山形蔵の由来について尋ねられた時「出羽守(最上義光)時代の建造物で、京の商人島屋なる御用商人が関税所を設けていた」と答えている。明暦絵図によると、肴蔵や材木蔵または御鷹匠宿などが河岸に見える。これらも建設時期が明らかでないが、慶長5、6年以後、元和8年前後にかけて酒田湊の規模が拡大したころのものと思われる。
内町を上下二町に分け、新しく下内町を設ける。
下内町の秋葉神社が創建される。上内町・山椒小路の秋葉神社もこの頃創建と伝える。貞享年中、火防のため遠江因秋葉神社から二十一社を各町に勧請するという。火災が多いため火よけの神としての秋葉信仰や古峰原信仰が盛んになる。
米屋町組ははじめ岩堀孫右衛門・遠山七右衛門が大庄屋であったが、この年、池田吉兵衛・野附七郎兵衛に代る。