元禄元年(1688)

年号選択
 
元号年月日事項文キーワード
元禄元年168810月人夫3千人をもって浜蔵をたてる。「此頃酒田は北方の良湊として海内に鳴響き、船舶の出入するもの頓に増加し、問屋の数四、五十軒の多きに達し、亀ヶ崎城の下より湊口に至る迄、帆檣林の如く、その殷盛なること比類なしと称せられる。当時の問屋は何れも盛大なりしが、中でも鐙屋惣左衛門を以て巨擘とする。」(酒田港誌)
西鶴の『日本永代蔵』が出版される。その中に酒田鐙屋繁盛のありさまが書かれており、この頃酒田の富商はその名を上方まで知られていたことがうかがわれる。「爰に坂田の町に鐙屋と云える大問屋住みけるが、昔は纔かなる大宿せしに、其身才覚にて近年次第に家栄え、諸国の客を引請け、北の国一番の米の買入れ惣右衛門と云ふ名を知らざるは無し」(日本永代蔵 舟人馬かた鐙屋の庭)
大坂の住吉神社境内にある諸国紅花荷主連中が献じた石燈篭は、元禄時代の爛熟により紅花の需要が急激に増えたことを物語る記念塔である。最上の紅花はすべて最上川を下り、酒田から出荷されており、酒田にはすでに紅花組合があり、それに入らない海船は積むことができなくなっていたと推定される。(大石田町史)
この頃酒田から最上川を上らせた荷物は塩・水油・鯡・鮪・瀬戸物・古手・茶などで酒田船は大石田まで積上り、大石田の荷宿が引請け、大石田から最上船に積換え、上郷商人へ送った。(大石田二藤部文書)
出町は元禄以降船場町が栄えるとともにできたものと思われる。
大山・酒田間の街道運賃のうち、大山・浜中間は「郷政録」に荷一駄六十八文とある。
元禄から享保期の都市商業資本の拡充発展により、特権的伝統商人に対抗する新規商人の台頭が表面化してくる。
内町組の大庄屋は斎藤淡路・三丁目大炊の両家が世襲していたが、淡路の子孫弥右衛門が改易され、斎藤平右衛門が代る。
大行院を愛宕山青雲寺と改称(愛宕神社)する。(市史史料篇七)