元禄8年(1695)

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元禄8年1695酒田蔵入米定法を定める。一俵の貫目18貫800匁を下目とし、桝目4斗8升7、8合。
この頃、酒田町奉行関甚太夫から、酒田の町年寄や酒田町組・内町組・米屋町組の大庄屋8人へあて、「市」についての書状が出される。(伊東家文書)
町奉行所から酒田在住の惣医師に対し、出自(出生地)年齢・住所・修業・専門科などを書き記し、提出するよう示達があり「酒田惣御町医師之覚」を出す。これによると内科医31名、外科医5名、眼科2名、小児科1名のほかに鍼師1名で、計40名となっている。(上に同じ)
この年、元来は浄土宗であった浄円寺が、浄土真宗本願寺派に属し、清涼山大信寺と改める。のち明和8年(1771)火難を避けて後方の現在地に移建する。同寺は越後国蒲原郡新田村の新田某が薙髪して浄泉坊了玄と称し、袖浦に念仏道場を開いたのが最初である。
奥羽、特に津軽・南部の大凶作を契機に、翌9年から松前藩(北海道)の藩用米購人を出羽国幕領米のうちから年々払い下げられることになり、松前藩の海船が酒田湊へ取りにくる。当初、松前への渡し米は年に3000俵(1俵4斗8升入)だったが、宝永5年より、松前藩からの要望で4500俵となる。落野目からも渡される。(羽州庄内幕領地における松前渡米、本間勝喜)