宝永元年(1704)

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宝永元年17042月洪水のため亀ヶ崎城三の丸西の方がこわされる。土居下新井田川岸が破損し、その修理に5月から7月までかかる。水害
3月20日中ノ口の松山御蔵前道路を修理する。(松嶺町史年表)
5月初めて酒田から御城米を東廻りで江戸に送る。
6月家中で米札偽造を犯した牧荒之助(死罪)その他5人が処刑される。
8月本間家が家屋を修理する。(市史史料篇五)
10月22日幕府は目付杉山安兵衛らを出羽に派遣し、飽海・由利両郡から訴訟が出て争われていた鳥海山頂境界問題を判決して、飽海郡の勝訴とする。(山形県史)
酒田の御用金七千両のうち三丁目弥右衛門が千五百両、鐙谷惣左衛門・加賀屋与助・上林七郎右衛門の3人で四千両献上につき、十人扶持を給与され、藩の財政がようやく町人に頼るようになる。
藩米の海上輸送はおおむね雇船で運んでいた。延宝中には加賀・越前地方からの雇船33隻で送っていた。
塩運賃はこの年の請願により、100俵について遠方6俵半、近くは5俵半に増額になり、河村端賢の定めに戻る。
この年、年貢米廻漕規定を定める。
宝永年中に飛島の絵図ができる。(飛島誌)
酒田御足軽の御弓・御鉄砲の見分が始まる。(大泉掌芭)
この年日照りで大凶作。