宝永4年(1707)

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宝永4年17071月8日俳人大淀三手風が没する。69歳。三千風は伊勢の人、初め仏門に入り、呑空と名づく。すこぶる文才があり、1日に三千句を詠ず。これより三千風と号す。7年間全国を遊歴する。のち大磯に西行庵を再建してここに居る。「一声や丈西行にほととぎす」の句があり、是より人呼んで丈西行という。天和3年酒田に遊んで天満宮で酒田俳人と唱和する。
3月11日肴町から出火して220余戸を焼く。火事
4月14日本間家が山王宮神宿を務める。(市史史料篇五)
4月三丁目弥右衛門が鶴岡家中に金700両を貸与する。
6月14日丸沼土手が切れ、西野では屋内一尺六、七寸の水となる。二十年来の大水。16日の昼より水増し、17日朝より退く。(伊藤家記)水害
6月15日大洪水が城の本丸と新井田蔵を浸し、濡米六、七千俵を出す。18日より人足がつめる。この時川床が突起し河口を團して、宮野浦に新河口ができる。
7月宮ノ内村9ヵ所、中嶋村6ヵ所等、遊佐郷44ヵ所に落雷する。(遊佐町史資料八)
7月15日大風雨のため、小湊が一夜でうずまり、酒田湊口がふさがる。水害
8月問屋加賀屋与助か旅人19人から7千両余を借入れ、閉戸を命じられ、翌正月赦される。
12月8日猟師町(船場町)から出火し、北西風のもと本町・肴町・片町など718軒を焼失する。火事
袖浦の佐藤太郎右衛門が広岡村に移住し、砂埋地に植林をはじめ広岡新田をひらく。
この年、藩が林政を改革して、濫伐を禁じ、用木伐採の制を定め、官三民七の法を立て、郷中に松・杉・漆・楮・桑・竹等を植えるように達する。(荘内経済年表)
伊東玄的が藩医となる。
本間家が長人(三十六人衆)となる。
鶴岡に初めて湯屋を設ける。(荘内史年表)
船場町は明暦ころは最上川の流底であったが、河流の変化で起上り地となり、猟師町下河原と称した。元禄末ころから人家が立ち、この年、屋敷割をし町並となる。
この年から酒田に湯屋13軒が許可となり、開業し、「湯屋定書之覚」が出される。(伊東善三家文書)
広岡新田村で大和国広瀬神社より分霊し、遠賀神社を創建する。(広岡新田発達の概要)