宝永5年(1708)

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宝永5年17084月藩財政の窮乏甚しく、またまた藩士へ100石に付45俵宛の上米を命じて急場をしのぐ。(荘内史年表)
6月14日亀ケ崎城在番阿部孫太夫が(禄高千石)が勤務中、折しも鳶がついばんだ煙草火縄が城代の邸宅に落下して全焼する。その原因を天災と偽わって届け出たことが露見したため隠居を命ぜられ、減知閉門となる。
7月12日大雨、夜中酒田湊が砂押しのため上ケ浜(湊口閉塞)となり、7月21日より掘人足に総郡中から加勢として詰める。15、6日後、宮野浦付近が破れて元の湊のようになる。(余目西野肝煎伊藤家記)水害
7月本町三丁目より出火し、6軒を焼失する。この時鐙屋も類焼する。火事
江戸の商人、大坂屋九右衛門・境屋七右衛門が来酒して、酒田出入荷物税の徴収を二千五百両の請負料で願い出たが許されない。
酒田御用金の内、三丁目弥右衛門千両・粕谷三左衛門五百両・鐙屋惣右衛門二百両・上林七郎左衛門二百両を献上する。(川上記)
亀ケ崎城内二の丸にあった十一面観音菩薩を、亀ケ崎六丁目の現在地にあった慶光山観音寺に安置する。(飽海郡誌)
この年諸国で疱瘡と麻疹が大流行し、翌春も同じく流行する。(余目町史年表)