享保元年(1716)

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享保元年17164月水帳・御用帳などの備え付けで、「三十六人御用帳」(本間家蔵)が始まったと思われる。
5月洪水水害
10月新庄戸澤上総介より酒田の医師下村正益を召抱えたいとの申入れが菩提寺桂岳寺を通してある。
御領巡見使山下伝右衛門・八木清五郎・竹嶋五左衛門が酒田にくる。
浜の念仏堂で二万日回向を行う。(県史史料篇六)
広野新田村に太神宮が創建される。のち皇太神社と改称する。(東田川郡郷土教育資料)
小湊渡船場で渡船が転覆し、人馬が流れ、塩越の女が水死する。(市史史料篇一)
大坂米座では限月売買の許可を得て実施する。鶴岡及び酒田の米相場所でも、それと同じ方法によって売買の決済を10日、1ヵ月或は2ヵ月後に延ばす。これより延商内、延清算取引を行うようになる。
儒者、医師結城鳳洋が生まれる。
四代忠真下向のとき酒田からの御迎船は次のとおり。
一、五人乗 拾六艘
一、四人乗 九艘
一、三人乗 四拾六艘
一、貳人乗 廿三艘
一、壱人乗 十三艘
船合百七艘 此水主六百五拾七人
享保年間の「梶原久三郎書留」によると、兵法家や牢大ものの武芸者を、三十六人衆の家で逗留させていたことがうかがわれる。この頃、山王堂小路に小柳五郎右衛門という棒術家がおって、多少の弟子をとり指南している。
泉流寺が現在の地に移転する。
この年酒田から海上を積出して大坂または江戸へ送られた御城米は7万9180俵で、海船40艘で廻送している。