享保12年(1727)

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享保12年1727閏1月新庄戸沢家藩米蔵宿は古来加賀屋与助のところ、与助退転のため永田茂右衛門に代える。
2月宮崎忠右衛門が八軒町稲荷神社を山城国伏見稲荷より勧請する。もっとも伝承ではもっと古く、およそ770年以前大納言某の作という古い翁面があり、翁稲荷とも称した。元文5年4月再建する。
4月12日落雷によって上の山から出火して700戸を焼く。不玉宅も類焼する。この火事で鐙屋はすべてを焼失し、翌日、町奉行に行くのに親族から裃などの衣服を借りたという。火事
8月7日海晏寺から出火して正徳寺など200戸を焼く。(酒田港誌)火事
8月初めて藩の許可を得て、下寺町に公立米座を立てる。その後、米会所と改める。幕府では大坂堂島・加州金沢・出羽酒田のみに米座設立を許したと伝える。このことからもいかに酒田が米経済すなわち米相場で潤っていたかがわかる。しかも米座開設により米商はいよいよ進歩し、米問屋はつねに新井田蔵に至り、現米と引替売買し、出庫船積をした。多くは大坂地方に輸送した。
8月江戸の小笠原八兵衛が庄内藩に酒田湊の掘立を願い出る。(上に同じ)
荷物の海船や蔵への積み入れ、その他の商品の蔵出し、蔵入れや運搬に従事し、酒田湊繁栄の影の主役であった丁持の数は、内町・米屋町組の御蔵丁持は369人、酒田町組の丁持が307人、家数187軒、岡持が157人、親子勤24人の計480人であり、全町では857人の多きに達している。酒田丁持の海船へ積む技術は日本一といわれた。
この年の「上林家御用帳」には、宗派別人口が記入されている。それによると全体では真宗38.2%、曹洞宗34.2%・浄土宗16.4%・日蓮宗8.2%・真言宗3%であるが、湊町である酒田町組では真宗が45.2%と圧倒的に多い。
この年から酒田の目明しが3人となる。
この頃から船場町が栄える。
染屋は36軒、頭は給人町の善五郎となっている。