享保16年(1731)

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享保16年17316月8日最上川の移動が激しく、町村・興野村・南口村・廿六木村・堤興野村・堀場村・柴野村等の関係諸村が絵図証文を作製する。(堤興屋文書)
8月酒井忠真が卒する。50歳。忠真に男子があったが早生、支藩松山藩主酒井石見守忠豫の二男忠寄を嗣子とし、10月家督(七代)する。(荘内歴史年表)
8月29日本間家初代原光はあらかじめ諸子への遺産分与を定めて隠居する。そして四男駒之助後の名俊安の医術修行に同行して京都に赴き、18年帰国、その間京坂の商況を観察し、遠隔よく家事を指導して家運長久の基礎を確立する。(市史史料篇五)
9月16日あられ小路(和泉小路)から出火して700戸を焼く。中町・匠町・今町・出町・伝馬町(半分)。(梶原久三郎書留)火事
本間庄五郎光寿が先代久四郎原光の跡をつぎ、二代目当主となり、さらに酒田町長人となる。(荘内経済年表)
元禄14年の水帳は不完全なため、貞享年中から着手していた各町の水帳と絵図が完成し、統一的に整えられる。
上郷の在方荷主商人の成長により、中継湊酒田・大石田の旧豪商層との分解対立が表面化する。
当亥年梨子・柿・桃・栗・梅・すもも大豊作、瓜はよく出来たが、連日の日照でつるが枯れる。大根は不出来。(雞肋編下)