享保17年(1732)

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享保17年17326月1日和泉小路から出火して16戸を焼く。破壊家屋3戸。火事
6月最上川通り諸村の間に、境界は川水戸限りの取極めができる。以後この取極めを以て大本とする。(廿六木文書)
8月藩主酒井忠寄が江戸より帰国につき、酒田から御召船1、御召替船その他125艘を大石田まで上る。およそ藩主の江戸に上下する場合はみなこの例に準ずる。船頭衆もすべて酒田より行く。元禄6年には川船162艘、船頭、水主1,130人であった。途中、殿様の船旅を慰めるため御吉例御船唄を歌ったり、魚をとって御覧に入れた。殿様の御座船は平常は新井田川の中の口橋辺りにつながれていた。
8月上山王社の社殿の葺替をする。
9月11日本間原光の二男新蔵が本町二丁目に家屋を新築し分家する。(市史史料篇五)
9月松平甚三郎久治が城代となる。
12月25日本間光丘が生まれる。母は於米、新堀加藤勘右衛門の女。
足軽目付の勤方について「酒田在番記」には目付四人で、二人ずつ隔番に昼夜勤めている。御城内は1ヵ月に四、五度ずつ廻った。
赤川下流の黒森下から鳥巻淵まで、千間余(1,820メートル)の掘割を、佐藤太郎右衛門が藩に願い出る。(坂野辺文書)
太郎右衛門に山浜通り御林菱津山と加茂山に松と杉の植立を命ぜられる。(坂野辺文書)
医師桜井三折が生まれる。
この年庄内は不作。(荘内史年表)