寛保2年(1742)

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寛保2年17423月1日加賀屋太右衛門母の葬儀が旦那寺の安祥寺でいとなまれた時、同宗の浄福寺住職が導師でないにもかかわらず、先年の取決めに反して曲彖に坐ったため、野諷経の勤めにでていた他寺の住職たちから無礼を非難され、他寺院の住職たちは、浄福寺とは義絶も辞さないという強硬手段に出る。大信寺道粋が仲に入ったがまとまらない。(妙法寺文書)
4月俳人佐久間柳居が来酒する。
山形藩で新造の船を米の運送に用いようとしたが禁止される。最上川手船として、船町より8艘を買上げ、12艘を新造し、米の運送に用いようとしたが、酒田より江戸留守居に抗議したため禁止される。
5月日蝕、八分欠ける。
夏ころから狂犬病が流行し、死亡者が多く出る。
9月廬元坊が再度来酒する。20日、銭別句会を催す。
秋頃、蕉風再興の京都俳人与謝蕪村が奥羽を旅し、酒田の句を詠む。 毛見の衆の舟さし下せ最上川  蕪村 新米の坂田は早しもがみ川(新花摘所収、日和山公園に句碑がある)
寺町うしろ通り大町村支配の砂浜地借地に追々屋敷割付する。
本慶寺が寺町通りから、後方の浜畑分に移転する。
浜畑町は正保のころ若干の民家があったがこの年に町並となる。
鮭の脇売禁止で、台町・猟師町・肴町へ鮭の御肴蔵納入を命じられる。(市史史料篇二)
遊摺部村と新堀村で、鮭・鱒・八ッ目漁の漁場について協定を結ぶ。(余目町史上)
幕府が無尽講取締の令を発する。(北村山郡史)
江戸表から倹約令が出される。