延享3年(1746)

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延享3年17464月巡見使または諸家通行の際の人馬割は、大庄屋取扱いであったのを長人(三十六人衆)に改める。
5月1日幕府巡見使山口勘兵衛・神保新五左衛門・細井金五郎が庄内に着く。鼠ヶ関より大山・酒田・小砂川を経て秋田に入る。(荘内史年表)
巡見使に大石田は窮状を申し立てたので幕府勘定方の神山が調査に下向し、川船取締りとして大石田本町の名主六右衛門と堀田領大石田村大庄屋与左衛門の両人を、従来の上郷差配人5人へ加えることになる。(酒田湊川船道秘録)
城米下し船の比率が最上船160艘、酒田船165艘となる。
内町・米屋町組の御蔵丁持と、酒田町組の岡丁持との間で、材木や薪その他を岡丁持達が内町・米屋町組へ侵出して川揚げしたり、運搬するということで紛争が起こる。
「羽黒派連名帳」によると、この年、酒田には羽黒派修験寺院が16力院あり、万蔵院(現日吉町光国寺)は飽海郡一円の年中行事を管轄し、不動院(現下日枝神社)は触頭となっている。
庄内藩士富樫丈右衛門二男の忠海が海向寺に住し、海向寺を再興する。
凶作のため米価が高騰し、十両に26俵となる。
藩費を以て藤崎植付場に砂除簀垣を設ける。(荘内経済年表)
能登興野村戸数23戸、人口150人。(巡見使御用覚書)
この頃酒田に初めてきざみ煙草売店がひらかれる。この前は自製で飲んでいた。(酒田町史年表稿)