宝暦元年(1751)

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宝暦元年17511月湊口銭増上納を命ぜられる。
3月29日荒瀬町から出火して南東北風のもと大火となる。延焼2400余戸。米の損害102,667俵、焼死者80名、御米置場・下の山王社も類焼する。藩では1日に米20俵の粥を罹災者に数日にわたって給する。豊後火事または宝暦の火事という。(酒井家世紀)火事
3月質屋規則を定める。
3月年貢米の川下し仕法が決められる。
「小舟方割場」による御料米(天領米)の酒田への川下し船割は、大船21般で2,161俵(一艘平均102俵余)小舟3,533俵(一艘平均49俵)である。例年こうして運漕されていた。また、酒田小舟方は藩の年貢米積下しが完了すると、毎年御褒美口銭として町奉行より50貫文を頂戴する慣行になっている。(三十六人御用帳)
7月26日俳人竹内芦錐が没する。56歳。藤兵衛。柳眼窟。俳人・鶴岡一日市町の豆腐屋佐藤六郎兵衛(芦秀)の次男として生まれる。家業のかたわら俳諧をたしなむ。酒田に移住して大泉長次郎の名あり、子孫は越後屋藤十郎と称した。『柳眼窟芦錐追悼句集・水かけぐさ』がある。
7月28日本間光寿は、舎弟諸子のためあらかじめ分家資金の割合を定めて隠居する。正月2日店方店卸決算の金額千弐百七拾貫八百八拾五匁弐分の内弐百五拾貫目を古作(宗久)に、百貫目宛を友三郎・友重郎に、五拾貫目を重之丞に与え、残額を嫡子友次郎光丘に譲り、その他の金銀、田畑に対しては現在将来とも古作がその弐歩を取得し、八歩を友次郎に引継がせることとし、財産を久作に委託し家事を摂行させる。(市史史料篇五)
9月京田川の屈曲をのぞき、広野谷地に巾九間(16.4メートル)長さ九百間(1,638メートル)の新川を掘り、赤川・最上川の合流地にそそがせる。(酒田港誌)